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カテゴリー「我が家の今昔物語」の7件の記事

2016年8月17日 (水)

我が家の今昔物語⑦ まっか

今は昔。

もう35年ほど前のことである。

結婚したばかりだった。

ある日、私は夫の実家へ、近所の市場でキンショーメロンという黄色いメロンを買って行った。

メロンなので、まあ高いメロンではなかったが、ほかの物よりは張り込んだつもりである。

ちなみにその当時、夫の実家は私たちが住む賃貸マンションから歩いて2分ほど、なのでほぼ毎日のように私は顔を出していたのだが、たまにはちょっと張り込んでとでも思ったのだろう、手土産を持って行ったのだ。

一つ歳下の義妹は私を見るなり「わー、まっかや!」と言った。

真っ赤?

私は何が真っ赤か訳が分からなかった。

その日私が着ていた服も、手にしたものも、赤い物は一つもない。

次に夫の母が傍に寄ってきて「ホンマや、まっかや」と言った。

その時の母の視線の先がメロンだったので、黄色いメロンなのに、真っ赤というのがよけいに分からず、もしかしてこのメロンは切ったら中が真っ赤なのかと思った。

さらに夫の父もやってきて「へー、まっかやないか、懐かしいな」と言う。

みんながそのキンショーメロンでテンションが上がっているようすなので、まずは買った甲斐があったようには感じたが、まっかは、切ってみたけれど、果肉は赤くもなく、むしろ白いメロンであった。

それで、黄色いのに何で真っ赤かと尋ねたら、

「真っ赤ではなく〝まっか〟や」という。

一緒じゃない?

私にはその違いが聞き分けられない。

「まくわ、や、マクワウリ」

そう言われても訳は分からない。

なんでまくわが真っ赤なのだ?

しかもマクワウリって、何よ、これはキンショーメロンでメロンでしょ、シールも貼っているし。

そもそもウリは縞々があって青い細長い物でしょ?

はてさて。

納得できないものの、まあ、みんなが機嫌よくしているのだからいいか、と思った私だった。

夫は後で「まくわ→まくぁ→まっか、と変化したんや」と教えてくれた。

そして「ユウコの言うウリは奈良漬とかに使うウリで甘いウリとは違う」とノタマッタ。

いやいや、違うことはないよ、私が子供の頃に食べたことのあるウリは緑色で縞がある細長いウリだったよ。

甘くて美味しかったよ。プリンスメロンが出てきてから見なくなったけれど。

そう言ったけれど、相手にしてもらえなかった。

ずっと長い間、マクワウリとマッカとキンショーメロンのことは、面白いエピソードながらも何だか納得できないまま私の中で眠っていた。

clover

ところで、夫は先日突然「まっかをもらいに行く」とノタマッテ、退職後家庭菜園をしている友人に会いに行って、沢山もらってきた。

夫が釣りで大量に釣った時にお裾分けする元同僚で、時々海の幸と山の幸を物々交換するのだが、どうも「懐かしいけどなかなか手に入らないまっかが食べたい。作って欲しい」と厚かましくもリクエストしたようなのだ。

その日、男同士楽しくランチをして、嬉しそうにまっかと沢山の野菜を段ボールにいっぱい頂いて帰って来た。

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黄色い。これが夫が食べたかった ↑ 懐かしのマクワウリである。

メロン系の味だが、もっとさっぱり爽やかな甘さで美味しかった。5個も頂いた。

写真のは最後に残った小ぶりのもので、もっと大きいのを頂いて堪能した。

それで初めて、私が35年前に買ったキンショーメロンがマクワウリを丸くしたようなもので、だからみんなが黄色いのに「まっか」と言ったのだと納得したのだった。

ネットで調べてみたら、キンショーメロンはマクワウリをベースに掛け合わせたメロンだということも分かった。なるほどである。

調べているうちにウリを中心に紹介している方のサイトを見つけた。

ウリが地方によって色々あるのものだというのもそちらで知った。

興味深いサイトである。

私が生まれて育った北海道のウリは私の記憶通りに、縞模様の有る横に長い緑色の漬物のウリのような形のウリで、「北海甘露」「アジウリ」と呼ばれていたものというのもそちらで教えていただいた。

http://www.chinjuh.mydns.jp/hakubutu/kuirejo/melon_b.htm

(こちらのサイトの下の方に北海甘露が写真付きで。リンクフリーというので貼りました)。

アジウリという名前に覚えがあった。記憶の底に沈んで忘れてしまっていたが、そのサイトを見て、何十年かぶりに揺り起こされ目覚めた感じである。

clover

生きるのに忙しくしている中年期には、一瞬フラッシュのように思い出す過去の出来事も、そうだった、と懐かしむだけで、ひたすら前を向いて生きてきた。

わざわざ懐かしい物を作ってもらおうとも、わざわざ懐かしい人と再会しようとも、探そうともしないで。

夫は今月に入って3回、古い友人たちと飲みに出かけた。

高校時代の友人。大学時代の友人。かつての同僚。

会いたいと思った時に会わないと、人の命は永遠ではない。

まっかも、いずれ絶滅してしまう品種かもしれない。

今のうちに急いで食べないと。(笑)

clover

私の育った地方では「け」は「くえ=食え」である。

「ユッコ、すすけ、遠慮すんな」と勧められた場合は「ユウコ、寿司食え、遠慮するな」ということだ(「す」も「し」もなまって「す」で同じである)。

なので、北海道と関西と離れてはいるが、まっかの「か」が「くわ→くぁ→か」に変化するのはよくわかる。

clover

そういえば、まっか、と同じように戸惑った大阪の言葉に「かって」がある。

これは「買って」だと思ったら大間違い、正反対の「借って」つまり借りてなのである。

会議でホワイトボードが無いというので誰かが「じゃあ、かったらいい」と言うので高い経費になると思ったが無理して買ったら、言った人に驚かれて、レンタル業者から借りたらいいという意味で言ったという笑えない話を知っている。

これなども、夫や夫の母には発音の違いが判るらしいが、ネイティブ大阪人以外には迷惑な話である。

もっとも、ネイティブ大阪人と言っても、マクワの「まっか」も借りての「かって」も、今の若い人には分からない。

今は昔、の話である。

2015年2月 9日 (月)

我が家の今昔物語⑥ニッカとシゲコさん

毎日NHKテレビ小説「マッサン」を楽しみに見ています。

というのも、ニッカウヰスキーと余市には懐かしい思い出があるのです。

私の短大時代のクラスメイトには余市から札幌まで一時間近くかけて通ってくるシゲコさんというとてもチャーミングな方がいました。

友達になって、そのうち何度か泊りがけで遊びに行ったり、彼女が泊まって行ったり。

彼女のお宅は、お父様が早くに亡くなり、お母様と弟さんと、父方のおばあ様が暮らしていました。

大きな立派な仏壇があって、禅宗だと話していたので、TVドラマに出てくるように彼女のご先祖ももしかしたら会津の武家だったのかもしれません。

余市はリンゴの名産地でしたが、ほかにサクランボでも有名で、彼女からお土産にサクランボをたくさんもらったうれしい記憶もあります。

「お母さんが、これは食べ過ぎたらお腹壊すよ、って」と言いながらずっしりと重い茶色い紙袋を渡してくれたから、あれはお母様からの差し入れだったのでしょうか。学生には贅沢な果物で、お腹壊すまで食べても構わない、と思いっきり食べました。

後にも先にもあんなに食べたのは初めてで、おいしかった~。

幸せな思いをしました。

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ところで、私たちが就職先を探す頃、世の中は突如ドルショック、オイルショックで大変な経済状態になってしまいました。

それまでにない就職難、どこもかしこも新卒の採用は控え目、スチュワーデスの採用試験に通った友人などは半年間自宅待機で、その半年間アルバイトをしていました。

私は局アナを目指していたのですが、採用する人数が大幅に減り、最終の一つ手前まで進んだ局はあったものの落ち(その局は結局女子は1名しか採らなかった)、たまたま年末に公募があったラジオ番組のパーソナリティのオーディションにかろうじて次点で受かり、卒業とほぼ同時にその番組のパーソナリティの一人として仕事をはじめることができた、つまり首の皮一枚で繋がって仕事に就けたのでした。

そんな苦難の時代、余市のシゲコさんには、ニッカウヰスキーから「よろしければうちの会社はいかがでしょう」と声がかかって、いち早く就職が決まったのです。

シゲコさんのお母様に「お嬢様はそろそろ就職されるお年頃ではないですか。どこかお決まりですか。もし決まっていないのであれば、よろしければ」というお話があったというのです。

実はニッカウヰスキーの工場の土地の一部は、元はシゲコさんのお宅の土地だったのだそうで、ニッカはそこを買って、つまり譲っていただいた恩があるので、シゲコさんに声をかけてくださった。

その話を聞いた時、なんと義理堅いハートのある会社だろうと、私はニッカを見る目が変わりました。

彼女は美人で性格もいい子でした。

ニッカの工場の案内嬢になり、私は彼女の案内で2度ほど工場見学しました。

その当時は工場での試飲は飲み放題(笑)、とはいえ、そこでそんなに飲めるものでもなく、一度は研究室の研究スタッフも交え、近所の数軒しかない歓楽街?のどこか居酒屋かスナックかで飲んだ記憶があります。

club

私が結婚するすこし前に、彼女は前途有望なニッカの社員と結婚しました。

彼女のお相手は営業にいた人で、函館に異動したというので、私は結婚後、函館の実家に帰った時に一度彼女の住むアパートへ遊びに行きました。

彼女の作ったお昼をごちそうになり、それはイタリアのカチャトーラに似た鶏肉のトマト煮込みで、とても美味しかったのでレシピを聞いて、以来若干形は変わったものの我が家の定番メニューになった料理で、だからその料理を作ると、シゲコさんを思い出す私です。

しかし、年賀状をなんどかやり取りし、喪中で欠礼したこともあったりしているうちに、いつのまにか音信不通になってしまいました。

club

今、どうしているのでしょう、シゲコさん。

ドラマの「マッサン」では現在、余市を舞台に、マッサンにニッカの工場用地に自分の土地家屋を売った風間杜夫が演じる架空の森野熊虎が出ています。

どう思って見ていますか?

それから「御嬢さんの就職はお決まりですか?」と声をかけたのは、もしかしたらマッサン本人ではなかったでしょうか。

あの時、まだ竹鶴さんはご健在でした。

今、ドラマの影響で、工場見学は行列ができているのだそうで、案内嬢はさぞ忙しいことでしょう。

懐かしいな~。

シゲコさん。もう一度あなたに会いたいものです。

 

2014年3月 9日 (日)

我が家の今昔物語⑤ 御高祖頭巾と担ぎ屋と

今は昔。(ひさしぶりに更新します。皆さまご無沙汰でした)
私の祖母はサザエさん一家のフネさんのように常に和服を着ていました。
祖母の友人たちもみんなそうでした。生きていたら年齢は幾つになるのでしょう、100はとうに過ぎています。

我が家は先の戦争のため祖父母にとっての長男だった伯父が亡くなり、私の父が一人残され跡取りになり、そこへ私の母が結婚して入ってきました。
最初に生まれたのが私でした。

祖父母には女の子がいなかったので、私が誕生した時はとにかく女の子が生まれたということでとても喜んだそうです。
そうです、というより、身を持って祖父母に超のつくほど溺愛されて育ちましたcoldsweats01

私がおしゃべりで、言語中枢が異常に発達したのは、まさにこの祖父母に毎日話しかけられ、刺激を与えられたからにちがいないと思っています。
私は他の同じ年頃の子が「カラスは何て鳴くの?」と訊かれてやっと「カ~カ~」と答えられるようになった頃には、もうペラペラ喋っていたそうで、まさに口から生まれたとはこの子の事だという状態だったようです。

1歳半下に弟が生まれたため、私の世話は祖母が中心にしてくれました。
ほとんど祖母のおもちゃだったので、私はどこに行くにも祖母に付いて行かされ、物心つく頃には、だから祖母の友達が自分の友達だと思っていました。

気分は対等ですから、祖母と同じように座布団をもらい、同じように茶托にのせられたお茶をもらい、お茶うけの漬物なんかを食べて、「あ~~」とかなんとか咽喉やら舌をならしたり(下品やね)目を細め、美味しそうに頂いたのです。
たまにあまり行かない方の家に連れられて行って、座布団も茶托にのったお茶も私には出ないと、他の普通の子供が喜ぶような飴をもらったとしても、私は気分を害しすぐに「帰る」と言ったもので、祖母はすかさず「すみません、この子にも座布団と茶托にお茶を」と頼んだという話でした。

早い話コマっしゃくれたガキやったということです。


さて、そんな当時、北海道の雪の降る今頃の季節、祖母たちの外出時の格好は、着物の上にコートならぬ角巻(かくまき)でした。
角巻とは部厚い毛布でできた大きなストールのようなものです。

大きな四角いものを三角になるように半分で折って肩から時には頭からすっぽりかけて巻いて着ました。
角巻の画像

ところで、角巻だけではなく、なかには御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶる方もいました。
祖母の友達のうちの二人が決まって御高祖頭巾をかぶって家に訪ねてきました。

御高祖頭巾とは映画やTVで「忍者」とされる格好の頭巾とたぶん同じものです。
すっぽり耳も顔でも半分くらい覆うので、雪の降る季節には防寒に良かったのではないかと思います。
色は二人とも黒っぽい色でした。
私は子供心にこの御高祖頭巾が気になり、風呂敷を被って真似て「○○ばあさん」だと言って遊びました。

そのおばあさんのうちの一人は、今から思えば、祖母の友達ではありますが商売で反物を風呂敷で担いで売ってもいたようで(だから特にそのばあさんの真似をするときは風呂敷が2枚必要だった。笑)、毎回そのおばあさんの担いだ荷物の中から反物が出て、近所の人たちが見に集まっていました。
今日、親しくしているおたまさんのブログ記事を読んで、ふっと、そのころの私の思い出がよみがえったのです。

色とりどりの巻かれた反物が、次々と、すーっと畳に1メートルほど伸ばされ、顔映りを見るために人々の肩にあてられ、あーでもないこーでもないと賑やかに話が弾み、また伸ばされた反物はするすると巻かれて元の一本の筒状の物になるのでした。

我が家に反物を持ってくる人はもう一人いて、その人は男性でした。
まとうさん、あるいはまっとうさんと呼んでいたように思います。
この方は御高祖頭巾のおばあさんの持ってくるものよりは上等で、行李に入れて担ぐ量もかなりの量だったと思います。
柔らかい物腰で、顔はマヒナスターズの松平直樹にほんのちょっとだけ似ていました。
松平直樹より老けて、横幅もありましたが。
その人がいる店はJR(昔は国鉄と言った)五稜郭駅の近くにありました。

当時は車で販売などあまりない時代です。

日本の津々浦々まで、そうした行商の方が反物を持って歩いていたんだなと思います。

あ、今書いていて思ったのですが、デパートの外商さんってのはその流れであるものですね。松平直樹にちょっとだけ似ていたまとうさんは五稜郭駅の近くの呉服屋さんの言わば外商係員だったのかもしれません。

祖母や母ばかりでなく、子供の頃の私の着物も、そうして御高祖頭巾のおばあさんや、まとうさんによって運んでこられた中から選んだ物でした。

行商といえば、当時の函館には行商というよりも「担ぎ屋」と呼ばれた方々がいました。
とくに函館で「担ぎ屋」というのは主にはお米の担ぎ屋でした。

当時はお米は政府からの配給米を国民は食べていました。

米穀通帳というものもあってお米は個人が自由に手に入らなかったのです。

しかし、当時の北海道のお米はあまりおいしくなく、少し余裕があれば美味しい本州のお米を食べたいと思うのが普通で、だから禁止されている闇でのお米の売買が暗黙裡に行われていて、その売買をしたのが担ぎ屋でした。
米を青森の黒石あたりの有名な産地の農家に直に買い付けに行き、持って帰り、それを業者に売るのです。
重い米は、運びやすいように細長い枕のような袋に詰めて、何段も重ねて、自分の体重の5倍もの重量の米を運んでいました。

警察に見つかったら没収の上、罪になります。

罪になるのは嫌なので、見つかりそうになったらそっくり捨てて逃げたといいます。
彼らは効率よく、往きには農家の欲しがる物を運んで向こうで売り、米を買って帰ってきました。
我が家のお向かいに、その担ぎ屋をしているおばあさんが住んでいました。

夫を亡くしたあと、子供たち3人を食べさせるために担ぎ屋を選んだ人でした。

私は時々母に頼まれ、お米屋さんではないお向かいへ、おいしいお米を升を持って買いに行きました。特別な時に食べるとっておきのお米です。

そうした担ぎ屋は、食べ物のない戦後は特に多かったようですが、私が生まれた半年後に起こった台風での青函連絡船の洞爺丸沈没事故でたくさん担ぎ屋が亡くなり、一気に数が減ったと聞きます。
お向かいのおばあさんはそれでも続けたうちの一人です。
そのおばあさんも祖母とは友達で、だからよく家へ遊びに行ったものでした。しょっちゅう函館と青森を往復しているので青森に詳しく、連絡船で一緒に青森に行って駅前の市場を案内してもらったような記憶もあります。

最初にも書いたように、祖母の友達は全員常に和服を着ていました。

祖母は亡くなるまで和服で、ついでにいえばノーパンshockでした。

小学生の頃、参観日には母も和服で来ることがありました。

それがいつしかあっという間に世の中が変化し、和服は冠婚葬祭などのハレの衣装になり、サザエさん一家のフネさんのように常時和服で過ごす人はほぼ絶滅、ですか。

私の友人のA地さんは、長年旅館の女将さんをしていたせいで、そのほぼ絶滅品種の中にまだいらっしゃいますが…。

今は昔のお話です。

(もうすこし担ぎ屋の話は長く書いたんですが保存を押した途端フリーズして消えて、再度書く気力が萎え、ようやく奮い起こしてここまで書きました。充分これでも長いか。あはは)

2011年12月20日 (火)

我が家の今昔物語④ 濡れ衣

今は昔。私の記憶が残っている、始めの頃のお話。

ところで、人はいったい何歳くらいから記憶を持つのであろうか。

「物心つく」とはよく言うが、人は幼い時から、「何か」は思っているものであろう。

好き嫌い、イヤイヤをする頃から、確かに意志は持っているはずである。

それが大人になって、「思い出」「記憶」ということで振り返ると、とてもあいまいで、2歳や3歳の時のことなど、脳が未熟だったためか、あるいはそれほど強烈なできごとがなかったためか、私はまるで覚えていない。

私の一番古い記憶は、4歳の頃のものである。

日にちははっきりしている。昭和33年1月20日、一番下の弟の誕生日だ。

弟が生まれるというので、母の実家に私が預けられた時のことなのだ。

その記憶が明確に私の幼児期の記憶として残っている。

母の実家は、当時は函館の隣にある亀田町(40年ほどまえに合併して函館市になった)にあるわりと大きな農家であった。

家に行くと、とにかく敷地の入口部分にプールのように大きな(子供にはそう見えた)肥溜めがあって臭かった。臭気もそうだが大きさに圧倒されて、ぜったいに落ちてはいけない、近づいてはいけないと誰に教えられたものでもないのに、そう思っていた。

ともかく、まず、の歓迎が肥溜めの匂いで、そしてまたその近くに屋外のトイレがあって、これまた横に牛小屋があった。

母屋には馬小屋もくっついていて、動物の匂いと糞尿の匂いが、微妙に周囲にただよう家なのであった(こういう家は当時の農家では普通である)。

ところで、母の実家には、ジジちゃんとババちゃん(母の両親)と、同居している母の兄夫婦がいて、その子供(イトコ)も当時は4人いた。

臭いに慣れてさえしまえば、その家はたのしいところだった。私より年上の姉妹が3人もいて、女1人で育っている私には何くれとなくかまってくれる姉さんたちの存在がうれしかったし、いつも賑やかでうらやましかった。

ただし、こういう心情は今回の「記憶」のなかのベースにあるもので、当時の意識として、はっきりとしたものではない。後でもっと年がたつほどそれが楽しみになったのだ。

さて、その家に一晩預けられた私のことである。

母方の祖父母に可愛がられ、お客様のようにされ、大勢のイトコに囲まれて、幸せな一晩を過ごしたのであるが、どっこい、翌朝、突然、私は耳を疑う言葉で目が覚めた。

「ユウコがおねしょをした」というのである。

は~????

意味が分からなかった。

まったく。

どうして。

何が起きたのか。

覗き込む伯母の顔があった。

「な~に、ユッコ、おねしょしたんだかー」と笑っていた。

イトコ達の顔もあった。

「ユッコがおねしょした」

みんなで大騒ぎである。

はっきり言うが、これは濡れ衣だ。

私の寝ていた布団が濡れていて、私が犯人だとされたのである。

自分が置かれた状況が判ると、私は必死で抗議した。

「違う! 違う! 違う!」

ちなみに言うが、私の産まれた実家=我が家では、私は“おねしょはしない子”だった。

そこのところに特別プライドを持っていた。4歳なりに。

我が家では、同居する父方の祖父母に褒められて、調子にのって(とにかく幼い時からお調子者で褒められれば木にも上るほどのおっちょこちょいである。だから)、ますますりっぱな「おねしょのしない子」のイメージを壊すまいと子供ながらに思っていた。

かなりのプライドだった。おもらしもしない、「お尻の堅い子」だと我が家ではそう通っていた。

それが覚えもないおねしょの嫌疑をいきなりかけられたのである。

憤懣やるかたない。その気持ちは未だにはっきりと覚えている。

さて、しかし、たしかに私の寝ていたシーツは濡れていた。だが、くどいようだが、私ではない。必死で違うと泣きながら訴えたのだが、「いいさいいさ」で片づけられた。

イトコの中の5歳上のリョーコが、どれどれ、と私の下着に手を当てて、

「あれ、でも、おかしい、パンツは濡れていないよ」

と言ってくれた。

でも伯母には問題にされなかった。

まあ、おねしょは誰かがしたことに間違いはないのだし、それが私であろうが、イトコの誰かであろうが、同じようなものなのだ、大人には。

無念であった。

ほんまの濡れ衣である。

私は、しつこい性格なのか、この時のおねしょ濡れ衣事件は未だに忘れていない。

あの時布団をたくさん並べて大勢で寝た。子供は二人か三人が同じ布団で寝ていたのである。犯人は私が起きる前に起きて、私のところに濡れたシーツを押し付けたのかと思う。なんだか、おかしなことは他にもあったのに、私がおねしょをしたということで、笑っておさまったのである。

私の記憶の最初に、こんな話があった。

今は昔、大昔。

2011年12月12日 (月)

我が家の今昔物語 ③中学生のボトルキープ

今は昔。45年前、私が中学生の頃の話。

我が家の居間の隅に置かれていた棚には、どういうことか、私専用に寝酒用ワインが一本常備されていた。

母が用意したものだった。

それは甘口のワインで当時赤玉ポートワインというネーミングで一般家庭に親しまれていたワインだった。ネーミングは後でポートワインの本場からクレームがあったのか(当時の日本には似て非なるものが本場の名前付きで堂々と売られていた。シャンパンもそうだ。今はスパークリングワインと呼ぶ)、「赤玉スィートワイン」になった。今でも存在する。

当時は一本買うとワイングラスが一つおまけに付いていて、そのグラスに一杯分、中学生だった私は深夜にワインを一人でそそぎ、寝酒にしたのである。

母は何を考えていたのだろう。おかしな話である。

養命酒の代わりのつもりで、養命酒よりも安いワインを私に与えたのだろうか。

それともワインというものが薬の一種とでも思っていたのだろうか。

どうもそんなふしがある。

ところで、私は子供のころからお酒が好きだった。

お正月に大っぴらに飲むお神酒をたのしみにしていた。

我が家は祖父も父も飲兵衛だったから、酒はすぐ隣にあって、私はお燗番もさせられたし、その流れで隙いあらば祖父や父からお猪口のお酒をもらって飲んだ。

そういう私であったから、寝酒にと私だけに用意された赤玉ワインはうれしかった。

深夜まで受験勉強したご褒美と思い、ワイングラスに8割注ぎ、ゆっくりと味わって飲んだ。

とても美味しかった。一日のご褒美、ご褒美。ふふふ。ほくそえみながら。

もう一杯飲みたいのを必死で我慢して、毎日一杯、飲んで布団に入った。

どのくらい続いたのだろう。

何本か、続けて習慣のように飲んだ記憶がある。

「お前は体が冷えるから」記憶の中に母のその言葉が残っている。

だから、冷え性予防に血行が良くなるようにと北海道の寒い冬の間だけ与えてくれたのだろうか。

何もかもが夢のような大昔の出来事である。

中学生が寝酒だなんて……。子どもの飲酒に関してゆるい時代の、今ではありえないお話。

今は昔、である。

2011年12月 2日 (金)

我が家の今昔物語②食べてはいけない

今は昔。実家での話である。十五夜の日、お月様にお供えしたものを独身女性の私は食べてはいけないと言われた。

お月さまにお供えした物と同じ物がお布巾で隠され、私だけ別にそれを食べさせられた。

あの頃、我が家でお供えしたものは、とうもろこしと枝豆と葡萄と、洋梨もあっただろうか、お団子は白玉団子のような祖母の手作りの平たくて丸いお団子だった。

行事を仕切っていたのは祖母である。

「十五夜のお月さんにささげたものを結婚前の女が食べたら子供を十五人も産んでしまうから」と因果を含めるように私に言っていた。

十五人も子供を産むというのは、出産なんぞ考えもしない少女の頃の私でも、なんだかおそろしく大変なことのように思えた。

不思議な話だったが、祖母はひそひそ話のように毎回私に告げるので、大人の女の秘密を明かされたような気分になって、理屈を超えて、納得させられた。

どこの家でも同じに違いないと、私はべつに誰にもその話をしなかった。

話題にするほど特殊な話だとは思いもしなかったのだ。

ところが結婚してしばらくしてから、大阪ではそんなことはしないと知り、改めて北海道の友人に訊いたら、北海道の誰に訊いても(実家のある函館や、学生時代に知り合った札幌を始め方々の道民も)、そんな話は知らないという。

どうも、そんなことをしていたのは我が家だけだったようなのである。

だからとつぜん、“腑におちないおかしな話”になった。

祖母は私の結婚を見届けて3か月後に亡くなった。母もそれから10年ほどで亡くなった。

私が疑問に思うようになったのは、祖母も母も亡くなった後のことだ。

十五人も子供を産んでしまうから食べてはいけない、と言われ、そのまま従順に食べなかったせいか、私は一人も子供は産まなかった。

あれはそう言われてもちょっとくらい食べた方がよかったのかもしれなかったかな、というような話をj冗談で友人にして、その結果、そんな話は大阪では聞いたことがないと言われ、さらに北海道でも聞いたことがない話だとわかったのだ。

唯一生きている父に尋ねると、

「さあ、あれは父さんも他では聞かない話だが、どういうわけか祖母さんがそう言ってお前に食べさせなかったのだ」

と言われた。

祖母は男の子を三人産み、女は産まなかったので、我が家でお布巾で覆いお月様の光から遮ったものを食べたのは私だけである。

私の祖母は秋田県の男鹿半島のつけ根にある船越という所の出身だった。

もしかしたら秋田の風習なのかもしれない。

そう思って調べたら、やはりそうだった。

子供が十五人もできる、という話ではなく、難産になるからというような話がネットで出ていた。

女性の月の物とお月様と、微妙な関係で、お月様のお供えを取って食べるとお産にかかわることで苦労するとというような話になったのだろうか。

今は昔のことである。

もう私には月の物も無くなった(笑)

2011年11月21日 (月)

我が家の今昔物語①納豆禁止令

今は昔、結婚した当初の納豆がらみの話である。

夫は大阪の人間で、納豆は匂いも味も苦手であった。

私はそもそも納豆がそんなに好きなことでもなかったが、そんなこととは知らず、ある時、買って、お昼に食べた。

そのころは狭いマンションに住んでいたので、夫が帰ってマンションのドアを開けたら、納豆の匂いがするので、不快に思い、即座に、納豆は大阪では一般に食べられていないこと、自分も嫌いだからと言い「食べてくれるな」ときつく頼まれた。

大げさであるが、納豆禁止令が発令されたのである。

ところがそう言われると、ますます納豆が食べたくなるのが人情だ。

当時、たしかに大阪では納豆じたいあまり売っていなかった。

市場の味噌ばかり売っているお店の隅あたりにマレにひっそりと売られていて、それはしかも賞味期限ぎりぎりのものだったりした。

そういうものはますます匂いがきついのである。

で、密かに買ってお昼に納豆を食べて、何か紙でくるんでゴミ箱に捨て証拠隠滅を図ったのであるが、どうも夫の嗅覚は犬並みなのか、帰ってくるなり「お前、隠れ納豆したやろ」と責められた。

私は隠れキリシタンならぬ、隠れ納豆者なのである。

そう言われても、懲りずにときどき食べ、嫌味を言われた。

今から31年前の事である。

翌年、私の住む八尾に西武百貨店ができた。

その地下のストアにテンコ盛り新鮮な納豆が売られているのを見たとき、涙が出たな~~~。

西武は東京系のデパートだから納豆がふんだんにあるのだと嬉しかった。はんぺんも売っていた。大阪には無いものが売っていてありがたかった。

ところで、月日が経つうちに、納豆は血液をサラサラにする、体に良い、という健康ブームにのって、大阪でも食べられるように変化していった。

夫もいつのまにか、新鮮な納豆で作った、納豆の天ぷら(海苔で包んで揚げて天つゆで食べる)に始まり、烏賊納豆。豆腐納豆、などちょっとずつ怖いもの見たさに私が作るものに手を出しているうちに、一人でも納豆を食べるようになった。

先日、近所のスーパーに「匂い控えめ」納豆が安売りしていて、買って食べたら夫曰く「これは納豆好きには物足らん味やな~」と。

(いつからあんた納豆好きになったのよ。え?)

同じようなものに、サンマもある。焼いたら部屋につく匂いが不快なので、家でサンマは食べるなと言われて、それで友人の家でお昼にサンマ持参でサンマ定食を一緒に食べたりした私だったが、いつの間にか、夫はサンマも大好きな人間になった。

ほんまに今は昔である。

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