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2014年3月 9日 (日)

我が家の今昔物語⑤ 御高祖頭巾と担ぎ屋と

今は昔。(ひさしぶりに更新します。皆さまご無沙汰でした)
私の祖母はサザエさん一家のフネさんのように常に和服を着ていました。
祖母の友人たちもみんなそうでした。生きていたら年齢は幾つになるのでしょう、100はとうに過ぎています。

我が家は先の戦争のため祖父母にとっての長男だった伯父が亡くなり、私の父が一人残され跡取りになり、そこへ私の母が結婚して入ってきました。
最初に生まれたのが私でした。

祖父母には女の子がいなかったので、私が誕生した時はとにかく女の子が生まれたということでとても喜んだそうです。
そうです、というより、身を持って祖父母に超のつくほど溺愛されて育ちましたcoldsweats01

私がおしゃべりで、言語中枢が異常に発達したのは、まさにこの祖父母に毎日話しかけられ、刺激を与えられたからにちがいないと思っています。
私は他の同じ年頃の子が「カラスは何て鳴くの?」と訊かれてやっと「カ~カ~」と答えられるようになった頃には、もうペラペラ喋っていたそうで、まさに口から生まれたとはこの子の事だという状態だったようです。

1歳半下に弟が生まれたため、私の世話は祖母が中心にしてくれました。
ほとんど祖母のおもちゃだったので、私はどこに行くにも祖母に付いて行かされ、物心つく頃には、だから祖母の友達が自分の友達だと思っていました。

気分は対等ですから、祖母と同じように座布団をもらい、同じように茶托にのせられたお茶をもらい、お茶うけの漬物なんかを食べて、「あ~~」とかなんとか咽喉やら舌をならしたり(下品やね)目を細め、美味しそうに頂いたのです。
たまにあまり行かない方の家に連れられて行って、座布団も茶托にのったお茶も私には出ないと、他の普通の子供が喜ぶような飴をもらったとしても、私は気分を害しすぐに「帰る」と言ったもので、祖母はすかさず「すみません、この子にも座布団と茶托にお茶を」と頼んだという話でした。

早い話コマっしゃくれたガキやったということです。


さて、そんな当時、北海道の雪の降る今頃の季節、祖母たちの外出時の格好は、着物の上にコートならぬ角巻(かくまき)でした。
角巻とは部厚い毛布でできた大きなストールのようなものです。

大きな四角いものを三角になるように半分で折って肩から時には頭からすっぽりかけて巻いて着ました。
角巻の画像

ところで、角巻だけではなく、なかには御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶる方もいました。
祖母の友達のうちの二人が決まって御高祖頭巾をかぶって家に訪ねてきました。

御高祖頭巾とは映画やTVで「忍者」とされる格好の頭巾とたぶん同じものです。
すっぽり耳も顔でも半分くらい覆うので、雪の降る季節には防寒に良かったのではないかと思います。
色は二人とも黒っぽい色でした。
私は子供心にこの御高祖頭巾が気になり、風呂敷を被って真似て「○○ばあさん」だと言って遊びました。

そのおばあさんのうちの一人は、今から思えば、祖母の友達ではありますが商売で反物を風呂敷で担いで売ってもいたようで(だから特にそのばあさんの真似をするときは風呂敷が2枚必要だった。笑)、毎回そのおばあさんの担いだ荷物の中から反物が出て、近所の人たちが見に集まっていました。
今日、親しくしているおたまさんのブログ記事を読んで、ふっと、そのころの私の思い出がよみがえったのです。

色とりどりの巻かれた反物が、次々と、すーっと畳に1メートルほど伸ばされ、顔映りを見るために人々の肩にあてられ、あーでもないこーでもないと賑やかに話が弾み、また伸ばされた反物はするすると巻かれて元の一本の筒状の物になるのでした。

我が家に反物を持ってくる人はもう一人いて、その人は男性でした。
まとうさん、あるいはまっとうさんと呼んでいたように思います。
この方は御高祖頭巾のおばあさんの持ってくるものよりは上等で、行李に入れて担ぐ量もかなりの量だったと思います。
柔らかい物腰で、顔はマヒナスターズの松平直樹にほんのちょっとだけ似ていました。
松平直樹より老けて、横幅もありましたが。
その人がいる店はJR(昔は国鉄と言った)五稜郭駅の近くにありました。

当時は車で販売などあまりない時代です。

日本の津々浦々まで、そうした行商の方が反物を持って歩いていたんだなと思います。

あ、今書いていて思ったのですが、デパートの外商さんってのはその流れであるものですね。松平直樹にちょっとだけ似ていたまとうさんは五稜郭駅の近くの呉服屋さんの言わば外商係員だったのかもしれません。

祖母や母ばかりでなく、子供の頃の私の着物も、そうして御高祖頭巾のおばあさんや、まとうさんによって運んでこられた中から選んだ物でした。

行商といえば、当時の函館には行商というよりも「担ぎ屋」と呼ばれた方々がいました。
とくに函館で「担ぎ屋」というのは主にはお米の担ぎ屋でした。

当時はお米は政府からの配給米を国民は食べていました。

米穀通帳というものもあってお米は個人が自由に手に入らなかったのです。

しかし、当時の北海道のお米はあまりおいしくなく、少し余裕があれば美味しい本州のお米を食べたいと思うのが普通で、だから禁止されている闇でのお米の売買が暗黙裡に行われていて、その売買をしたのが担ぎ屋でした。
米を青森の黒石あたりの有名な産地の農家に直に買い付けに行き、持って帰り、それを業者に売るのです。
重い米は、運びやすいように細長い枕のような袋に詰めて、何段も重ねて、自分の体重の5倍もの重量の米を運んでいました。

警察に見つかったら没収の上、罪になります。

罪になるのは嫌なので、見つかりそうになったらそっくり捨てて逃げたといいます。
彼らは効率よく、往きには農家の欲しがる物を運んで向こうで売り、米を買って帰ってきました。
我が家のお向かいに、その担ぎ屋をしているおばあさんが住んでいました。

夫を亡くしたあと、子供たち3人を食べさせるために担ぎ屋を選んだ人でした。

私は時々母に頼まれ、お米屋さんではないお向かいへ、おいしいお米を升を持って買いに行きました。特別な時に食べるとっておきのお米です。

そうした担ぎ屋は、食べ物のない戦後は特に多かったようですが、私が生まれた半年後に起こった台風での青函連絡船の洞爺丸沈没事故でたくさん担ぎ屋が亡くなり、一気に数が減ったと聞きます。
お向かいのおばあさんはそれでも続けたうちの一人です。
そのおばあさんも祖母とは友達で、だからよく家へ遊びに行ったものでした。しょっちゅう函館と青森を往復しているので青森に詳しく、連絡船で一緒に青森に行って駅前の市場を案内してもらったような記憶もあります。

最初にも書いたように、祖母の友達は全員常に和服を着ていました。

祖母は亡くなるまで和服で、ついでにいえばノーパンshockでした。

小学生の頃、参観日には母も和服で来ることがありました。

それがいつしかあっという間に世の中が変化し、和服は冠婚葬祭などのハレの衣装になり、サザエさん一家のフネさんのように常時和服で過ごす人はほぼ絶滅、ですか。

私の友人のA地さんは、長年旅館の女将さんをしていたせいで、そのほぼ絶滅品種の中にまだいらっしゃいますが…。

今は昔のお話です。

(もうすこし担ぎ屋の話は長く書いたんですが保存を押した途端フリーズして消えて、再度書く気力が萎え、ようやく奮い起こしてここまで書きました。充分これでも長いか。あはは)

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我が家の今昔物語」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。ツブにコメントありがとうございます。思わず見に来ちゃいました。はしょられたところが気になります。
うなじーずだし、北海道出身ということは、ちよ呑さんのお友達でしょうか。

私の実家にも呉服屋さんが来てました。京都の小さな呉服屋さんのおじいさん。家は湘南ですが、他の用事があるときに呉服を持ってきてくれていたようです。

私の幼稚園、小学校の入学式などの行事には、「カラスの葬式」と言われる、黒い羽織のお母様がたが多数お見えでした(笑)。いまどき着物なんて着ないでしょ、と思ったのですが、数年前日本に行ったとき、鎌倉では若い人が着物姿でお買い物。かなりうれしかったです。


おひさしぶりです。
長いなんてとんでもないです。
興味ある話題に最後まで一気に読ませていただきました。
ユウコさんの勇ましいところも微笑ましいですし♫
洞爺丸のところで指を折って数えたりしながら^^;
私の祖母も亡くなるまで着物の人でしたが、パンツの有無は定かではありません。
それにしても昔の担ぎ屋さんのご苦労を思うと、
注文の翌日に物が届く今の時代はとても贅沢だと改めて思うのでした。

ribbon猫まんなさん
まあheart04、ご訪問ありがとうございますnote
正解です! ウナジーズで、ちよ呑さんの友達です。偶然同じ小学校に通っていたということで、ちよ呑の大大先輩になります。ふふふふ(内緒。ここのブログの「夏の思ひ出(1)」の札幌編よければどうぞ、お宝画像が)

昨日、ブログを拝読しました。カナダに住んでいらっしゃるんですね。
毛糸を糸から紡いで作品にしているのは素敵、すばらしいな、と思いました。
時間がかかるでしょうが、徐々に形になっていくのは面白いでしょうね。

端折ったのは主には函館出身で結局は自死した作家の話を入れたのでした。
彼の両親が「担ぎ屋」で、かれはそのことに複雑な思いを持っていた、そのことを私なりに書いたのですが、書き直すにはエネルギーがもう足りなくなっちゃって。

そうそう、今、若い人が着物の古着を気軽に着て楽しんでいるという話も聞きますね。
昨年、夏の天神祭の日、浴衣に、靴はハイヒールを履いている御嬢さんを複数、天神祭の日に電車の中で見ました。
なんでもありで、それもいいかもですね。絶滅してしまうのよりは。

私もまた訪問させていただきます。今回はありがとうございました。


ribbonあめぶるさん
ご訪問ありがとうheart04
ほんとに久々の更新でしたcoldsweats01

米の担ぎ屋の話は、以前、取材するため、黒石まで行ったことがありました。
津軽海峡と青森が舞台になるので、あめぶるさんに読んでいただけたら嬉しいと思いました。

たぶん、あめぶるさんのお祖母さんもノーパンやったはずやで。
うちのお祖母ちゃん、数年に一度のめちゃくちゃ暑い夏の年に、数日だけ、ワンピース(アッパッパ~と呼んでいた)を着て、さすがにその時はブルマみたいなグンゼのパンツを穿いたのですが「パンツを穿くとムレル」と不愉快そうにしてました。
パンツは穿いたらムレルらしいのですわ。
あははは。

ああ、そそそ、あめぶるさんのブログ見て、蒸しパン真似しようかなと思いました。
出来るでしょうか。
我が家では昔、母がかぼちゃをマッシュして生地に練り込んだ蒸しパン作ってくれて、美味しかったんですよ~。
もう一度食べたいな。

絶滅危惧種の○地です(笑)
そうそう、ほんの二十年前までは、呉服屋さんきてました。今は、ネットで買います。古着屋さんが充実してるので、普段着はそこで。
で、私はパンツはきます。出かけるときはガードルも。だるだるお肉には必需品です。ついでに胸も締めます。帯が収まらないと、着くずれしやすいので。だからといって窮屈ではありませんよ。服着てるのと同じ。そういう意味では、私は着物着いではない。
時代村のようなとこで、従業員の若い人が、前はだけて帯ずりあがって…というの見ますが、たぶんあれが、正しい日本の着物姿だと思います。みんな、ああいうふうに着ていた。少なくとも、テレビで映るような、きちきちとした着付けではなかったはず。明治大正の庶民の写真にあきらか。
さらにの、で、ですが、最近は昔着てた着物で、作務衣をつくり、着ます。介護にはこれが便利です。それなら服にしろという話ですが、なぜか肩が凝るのです。仕立て方が服とは違うからか。不思議に。

そうそう、米穀通帳、私大阪で就職するときにもってきましたよ。これがないと米売ってくれないといわれて。でも使ったのは、アパートを借りるおりに身分証明としてだった。その一度だけ。
ながながとごめんなさい。久々の更新で、私もうれしかったもんで。

ribbon太郎の母さん
おひさです。
明日の贈呈式準備でバタバタの今頃になって、更新って、他にも締め切りの物も確定申告の書類も作らなあかんのに、なんでやのん、と自分に言いたいけど、書きたくなったのね(確定申告は今日出した。ギリギリやね)
半年ぶりの更新でしたわ。
あはは。
太郎の母さんは和服の下におパンツはいているのは前に聞いてたから知ってた。

それから米穀通帳は夫も北海道の大学に大阪から出る時、どうするかという話になったといってました。
結局は無くてもお米は買えたんですがね。
米穀通帳自体は政府が終了するのはもっと後みたいですが、昭和40年後半には身分証明以外ではあまり使われることがなくなったんでしょうね。

今夜はこれから先生とお食事です。
明日本番。何事もなく終われますよう祈っていてね。
コメントありがとうございましたheart04

ユウコさん、よかったぁ~。更新されていて。
ずっと心配していました。
何かあったんじゃないかって。
ほとんど毎日のように来ていたんですよ。
だからアップされていて本当に嬉しかったです!\(^o^)/

ユウコさんの記事は本当に勉強になります。
読んでいてとても楽しかったです。
私の祖母はもう和服は来ていなかったけれど、もんぺははいていました。
私の地域の方では祖母はいつも「こんにちは」とは言わず、「いい塩梅ですぅ~」が挨拶でした。
田舎なもので…(^_^;)。

両親の祖母ももう他界してしまい、今となってはいい思い出です。
13歳の時まで母方のひいばあさんが生きていたので小さい頃は色々教えてもらいました。
ほおずきの笛(というのだろうか…(^_^;))の作り方とか。
だから今でもほおずきを見るとひいばあさんを思い出します。
昔はほおずきの実って苦くて食べられたものじゃなかったけれど、今は食べられる甘いほおずきもあるんですよね。
ひいばあさんが生きていたら食べさせてあげたかったなぁなんて思いました。

余談失礼しました。
とにかくユウコさんが元気でいてくれたのが嬉しかったです^^。
また遊びに来ますね!

ribbon文月SHOさん
ご訪問ありがとうございます。
コメ返遅くなってごめんなさい
3月15日に私が代表になっている協会で主催する大きなイベントがあり、その前日から二日間、そのイベントに力をそそいだもので、終わった後、ものすごい疲労感。
二日間はとにかく寝たり起きたり、ぼや~~っとしてました。

今日、朝に夫に車でモーニングサービスを食べに連れて行ってもらい、帰りにすこしだけショッピングして、精神的にリフレッシュはかりました。
でもそのショッピングも疲れたりして、あはははは。

おかげさまで、低空飛行ながら、まずまず、普通にしています。
何でも食べられるようになって、それだけでもうれしいです。
一昨日は以前文月さんも一緒に「細雪風美人4姉妹」ユニットを組んだ高知の一番年下のumeちゃんがつぶやきくれて、うれしかった。
どうじに文月さんからもコメ頂いて、とても懐かしい、よくまちで遊んだあの時のことを思い出していい気分でした。

お互い、無理しないで、ゆる~~く、生きていこうね。
文月さんのブログ、時々ですが訪問しています。
見守ってますから、お互いに支えにしましょうね。
ではでは。
疲労からすこし立ち直ったユウコよりcoldsweats01

ワカメの味噌汁ではなく、縁談を持ってきてくれたほうの味噌汁でしたね^^;
お話、興味深くよみました。
そうそう。男性の「京やはん」は柳行李を風呂敷に包んで背負っておられました。
皆さんのコメントを読ませていただくと津々浦々に行商という訪問販売形態がまだ残っていたのですね。
米穀通帳は水屋の横にかけてありました。
(薬(錠剤)と親に騙されていましたが)サッカリンの袋と並んでかけてありました。

ribbonおたまさん
わ~~い、いらっしゃった。
ご訪問&コメントありがとうございますheart04

ほんとにおたまさんのブログに触発されて、ものすごく忙しかったんですが、書きたくて書きたくて書きました。
おたまさんに感謝です。
行商とか担ぎ屋、とか御高祖頭巾も角巻も、生活の当たり前だったことっていうのは、やっていた人が亡くなっていくうちに消えてしまうから、書き残すのは意味があることかもしれない、なんて、えらそうですが、思ったですわ。

サッカリン、なつかしいな。
小さな試験管のような瓶に入っていて、おはぎやお汁粉をつくるときに、祖母がちょちょっと振りいれていました。
そういえばあの当時、おはぎはとんでもなく大量に作って、作ったらご近所に必ずお裾分けしてました。
お裾分けも、家にもきました。
お彼岸なんか、どうやったんやろ、各家々のおはぎが、テーブルに並んだんでしょうか(その部分は記憶欠落。あはは)
今日はそういえば春分の日やわww

またおたまさんのところへ訪問いたします


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