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2014年3月

2014年3月31日 (月)

びんぼくさいが好きな物

今、食べ終わって、幸福感いっぱい。

なにが? って、パンの耳。

耳というのよね、たぶん。

食パンの両端を薄く切り落とした部分です。

私が好きなのは、バターの入ったリッチな食パンのその端っこをトーストしたもの。

食べてしまったから、写真は無いけれど、コーヒーのおともで食べるのが好き。

このところハマっているのは、スーパー「ライフ」のなかにあるパン屋さん「小麦の郷」のホテルブレッド。

heart04

食パンは関東と関西では好みの厚さが違うようで、関西ではいちばん多いのが5枚切り。

北海道育ちの私が関西に来るまでは6枚切りか8枚切りのパンを食べていて、5枚切りはあまり見かけなかったような。

そして当時は6枚と8枚のどちらが好みだったかなんて、もう遠い昔の話なので、忘れてしまった。あはは。

(というか、基本ご飯が好きだったので、食パンじたいあまり買わなかったかな。パンを買うときはたいてい菓子パンか惣菜パンだった)

関西に来て、5枚切りに慣れたら、5枚切りはパンの味がはっきりわかって美味しいと、食パンも好きになりました。

トーストしたら中がもちっとふわっとして、外はパリッとして美味しい。

そんなことで5枚切りが標準になった私です。

bread

ところが、病気をして、退院はできたものの、まだ食べ物に制限があった時に、たとえばパンケーキやトーストなら生ものではないので外食もそこそこ出来たので、息抜き、手抜きに、時々朝食を食べに夫とロイヤルホストに出かけたのですが(ここのパンケーキが美味しくて、たいてい私はそれ目当て)が、夫がよく頼むモーニングのトーストは8枚切りのパンが一枚っきり。

最初は、なんとケチくさい、大阪じゃあトーストは5枚切りが標準で、モーニングサービスでは4枚切りなんてのも普通やで、と驚いてました。

足りないから、トースト一枚追加注文するんですが、内心ずっとこんな薄っすいパン、と不満でした。

(すこしお互いのを交換して食べるから思うのね)

しかし、慣れというのは恐ろしい。

私がかつて、あっというまに関西風の5枚切りが美味しいと思うようになったように、これまた1年ほど経つと、この薄いパンが、中までカリッ、パリッとしてなかなか美味しいものではないか、と思えるようになったのでした。

そんなことで、8枚切りは見かけないから、たまに自分で1斤をパン切り包丁で薄めに切って食べたりするようにもなったのです。

はてさて、そこで先ほどのパンの耳。

パンの袋に、切った端っこを一緒に入れている、その一枚しかない耳を、キツネ色にこんがりと焼いて、サクッと、バターもジャムもシロップも何もつけずにコーヒーを飲みながら食べるのが、最近とても気にいっているのです。

2014年3月 9日 (日)

我が家の今昔物語⑤ 御高祖頭巾と担ぎ屋と

今は昔。(ひさしぶりに更新します。皆さまご無沙汰でした)
私の祖母はサザエさん一家のフネさんのように常に和服を着ていました。
祖母の友人たちもみんなそうでした。生きていたら年齢は幾つになるのでしょう、100はとうに過ぎています。

我が家は先の戦争のため祖父母にとっての長男だった伯父が亡くなり、私の父が一人残され跡取りになり、そこへ私の母が結婚して入ってきました。
最初に生まれたのが私でした。

祖父母には女の子がいなかったので、私が誕生した時はとにかく女の子が生まれたということでとても喜んだそうです。
そうです、というより、身を持って祖父母に超のつくほど溺愛されて育ちましたcoldsweats01

私がおしゃべりで、言語中枢が異常に発達したのは、まさにこの祖父母に毎日話しかけられ、刺激を与えられたからにちがいないと思っています。
私は他の同じ年頃の子が「カラスは何て鳴くの?」と訊かれてやっと「カ~カ~」と答えられるようになった頃には、もうペラペラ喋っていたそうで、まさに口から生まれたとはこの子の事だという状態だったようです。

1歳半下に弟が生まれたため、私の世話は祖母が中心にしてくれました。
ほとんど祖母のおもちゃだったので、私はどこに行くにも祖母に付いて行かされ、物心つく頃には、だから祖母の友達が自分の友達だと思っていました。

気分は対等ですから、祖母と同じように座布団をもらい、同じように茶托にのせられたお茶をもらい、お茶うけの漬物なんかを食べて、「あ~~」とかなんとか咽喉やら舌をならしたり(下品やね)目を細め、美味しそうに頂いたのです。
たまにあまり行かない方の家に連れられて行って、座布団も茶托にのったお茶も私には出ないと、他の普通の子供が喜ぶような飴をもらったとしても、私は気分を害しすぐに「帰る」と言ったもので、祖母はすかさず「すみません、この子にも座布団と茶托にお茶を」と頼んだという話でした。

早い話コマっしゃくれたガキやったということです。


さて、そんな当時、北海道の雪の降る今頃の季節、祖母たちの外出時の格好は、着物の上にコートならぬ角巻(かくまき)でした。
角巻とは部厚い毛布でできた大きなストールのようなものです。

大きな四角いものを三角になるように半分で折って肩から時には頭からすっぽりかけて巻いて着ました。
角巻の画像

ところで、角巻だけではなく、なかには御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶる方もいました。
祖母の友達のうちの二人が決まって御高祖頭巾をかぶって家に訪ねてきました。

御高祖頭巾とは映画やTVで「忍者」とされる格好の頭巾とたぶん同じものです。
すっぽり耳も顔でも半分くらい覆うので、雪の降る季節には防寒に良かったのではないかと思います。
色は二人とも黒っぽい色でした。
私は子供心にこの御高祖頭巾が気になり、風呂敷を被って真似て「○○ばあさん」だと言って遊びました。

そのおばあさんのうちの一人は、今から思えば、祖母の友達ではありますが商売で反物を風呂敷で担いで売ってもいたようで(だから特にそのばあさんの真似をするときは風呂敷が2枚必要だった。笑)、毎回そのおばあさんの担いだ荷物の中から反物が出て、近所の人たちが見に集まっていました。
今日、親しくしているおたまさんのブログ記事を読んで、ふっと、そのころの私の思い出がよみがえったのです。

色とりどりの巻かれた反物が、次々と、すーっと畳に1メートルほど伸ばされ、顔映りを見るために人々の肩にあてられ、あーでもないこーでもないと賑やかに話が弾み、また伸ばされた反物はするすると巻かれて元の一本の筒状の物になるのでした。

我が家に反物を持ってくる人はもう一人いて、その人は男性でした。
まとうさん、あるいはまっとうさんと呼んでいたように思います。
この方は御高祖頭巾のおばあさんの持ってくるものよりは上等で、行李に入れて担ぐ量もかなりの量だったと思います。
柔らかい物腰で、顔はマヒナスターズの松平直樹にほんのちょっとだけ似ていました。
松平直樹より老けて、横幅もありましたが。
その人がいる店はJR(昔は国鉄と言った)五稜郭駅の近くにありました。

当時は車で販売などあまりない時代です。

日本の津々浦々まで、そうした行商の方が反物を持って歩いていたんだなと思います。

あ、今書いていて思ったのですが、デパートの外商さんってのはその流れであるものですね。松平直樹にちょっとだけ似ていたまとうさんは五稜郭駅の近くの呉服屋さんの言わば外商係員だったのかもしれません。

祖母や母ばかりでなく、子供の頃の私の着物も、そうして御高祖頭巾のおばあさんや、まとうさんによって運んでこられた中から選んだ物でした。

行商といえば、当時の函館には行商というよりも「担ぎ屋」と呼ばれた方々がいました。
とくに函館で「担ぎ屋」というのは主にはお米の担ぎ屋でした。

当時はお米は政府からの配給米を国民は食べていました。

米穀通帳というものもあってお米は個人が自由に手に入らなかったのです。

しかし、当時の北海道のお米はあまりおいしくなく、少し余裕があれば美味しい本州のお米を食べたいと思うのが普通で、だから禁止されている闇でのお米の売買が暗黙裡に行われていて、その売買をしたのが担ぎ屋でした。
米を青森の黒石あたりの有名な産地の農家に直に買い付けに行き、持って帰り、それを業者に売るのです。
重い米は、運びやすいように細長い枕のような袋に詰めて、何段も重ねて、自分の体重の5倍もの重量の米を運んでいました。

警察に見つかったら没収の上、罪になります。

罪になるのは嫌なので、見つかりそうになったらそっくり捨てて逃げたといいます。
彼らは効率よく、往きには農家の欲しがる物を運んで向こうで売り、米を買って帰ってきました。
我が家のお向かいに、その担ぎ屋をしているおばあさんが住んでいました。

夫を亡くしたあと、子供たち3人を食べさせるために担ぎ屋を選んだ人でした。

私は時々母に頼まれ、お米屋さんではないお向かいへ、おいしいお米を升を持って買いに行きました。特別な時に食べるとっておきのお米です。

そうした担ぎ屋は、食べ物のない戦後は特に多かったようですが、私が生まれた半年後に起こった台風での青函連絡船の洞爺丸沈没事故でたくさん担ぎ屋が亡くなり、一気に数が減ったと聞きます。
お向かいのおばあさんはそれでも続けたうちの一人です。
そのおばあさんも祖母とは友達で、だからよく家へ遊びに行ったものでした。しょっちゅう函館と青森を往復しているので青森に詳しく、連絡船で一緒に青森に行って駅前の市場を案内してもらったような記憶もあります。

最初にも書いたように、祖母の友達は全員常に和服を着ていました。

祖母は亡くなるまで和服で、ついでにいえばノーパンshockでした。

小学生の頃、参観日には母も和服で来ることがありました。

それがいつしかあっという間に世の中が変化し、和服は冠婚葬祭などのハレの衣装になり、サザエさん一家のフネさんのように常時和服で過ごす人はほぼ絶滅、ですか。

私の友人のA地さんは、長年旅館の女将さんをしていたせいで、そのほぼ絶滅品種の中にまだいらっしゃいますが…。

今は昔のお話です。

(もうすこし担ぎ屋の話は長く書いたんですが保存を押した途端フリーズして消えて、再度書く気力が萎え、ようやく奮い起こしてここまで書きました。充分これでも長いか。あはは)

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