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2011年12月

2011年12月31日 (土)

なにかとお世話になりました

みなさま

本年はなにかとお世話になりました。

今年一年は大きな災害もあり、さまざまな出来事もありましたが、私個人では多くの素敵な出会いがありました。

ココログで二つ目のブログを作ってみて、思いがけず「まち」で出会ったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

Zarusoba350x350

本日大晦日。

どうぞ、どうぞ、これからも長~~いお付き合いを

来年もなにとぞよろしくお願いいたします。

2011年12月27日 (火)

ほっと一息

今月はほんとうに忙しかった。

で、今日、私が主に編集にたずさわっている冊子の原稿などをすべて印刷所へ渡して、打ち合わせも完了し、今、ほっと一息ついているところです。

これで今年の仕事もほぼ終了。

とはいえ、夫が真夜中に和歌山の御坊のあたりへメジロ釣りに行って、午後3時ころにボウズで帰宅、それはいいけど、印刷所の担当さんと近所の喫茶店で打ち合わせて、私が帰って玄関ドアを開けたら、もう、もう、もう、ひどいくさい匂いで、パーンチpunch

うっ。

くさっ。

げっ。おえっ。

そんな感じ。

玄関の横にお風呂があって、夫は機嫌よく入浴していたのだが、脱衣場に置いてある脱いだ服、すべてと、あと防寒と防水の分厚い上着(カッパのようなガサガサしたもの)からプンプンとエゲツナイ匂いが。

慌てて、予洗いから洗濯機2回まわした。

で上着の方は一回でもまだ臭いので、再度今また洗剤で洗っている。

これは洗っているというより、洗剤のよいにおいを臭いものに替えようと私はしているのが正解かな。無駄かもしらん。エコではない。すんません。

あみえび(エサにした)の腐った汁が衣類について臭いのだと思う。

ホッと一息と言っても、まだこんな状態である。

さて、さて、それはさておき、この数日、ココログのまちでいろいろ楽しかったので、その記念写真をブログに残しておこうと思う。

忙しかったけれど、そのなかの息抜きで、まちへ出かけ、こんなことがあったのだ。

ふふふ。

まずは「細雪」的、美人4姉妹結成、でそのうちの3人がこの前記念で撮影会。

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左からチーマーじゃんさん(谷崎潤一郎?)、4女ume、3女ショウコ、長女の私。

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そもそもの美人4姉妹の写真があったので貼る。左から2女文月SHO、ショウコ、私、ume

*註 なおこの場合の美人は主観によるものです。

ところで下記は25日の深夜。270x285_2011_12_25_23_34_23

ココログでいつも話の合う仲良しメンバー。

左からチーマーじゃんさん、ハイビスカスさん、私、nagisaさん、さくらさん。

で、昨夜というか今日未明は俄に「うなじーずセブン」または「うななーず」結成。

後姿をみんな短くうなじを見せてそろい踏み。

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ももぶたさん、ひまりさん、deruさんという正式うなじーずのほかに、おれまさきさん、こごろうさん、たまたまここへ来られてついでに参加された方もいて(私もその一人、右から2番目ね)。でもとっても、と~~っても、楽しかった!

*註 なお現在うなじーず増殖中のもようです。

ということで、ちょっと一息ついたので、ここ数日の報告でした。

註は28日に追記したしました。

2011年12月20日 (火)

我が家の今昔物語④ 濡れ衣

今は昔。私の記憶が残っている、始めの頃のお話。

ところで、人はいったい何歳くらいから記憶を持つのであろうか。

「物心つく」とはよく言うが、人は幼い時から、「何か」は思っているものであろう。

好き嫌い、イヤイヤをする頃から、確かに意志は持っているはずである。

それが大人になって、「思い出」「記憶」ということで振り返ると、とてもあいまいで、2歳や3歳の時のことなど、脳が未熟だったためか、あるいはそれほど強烈なできごとがなかったためか、私はまるで覚えていない。

私の一番古い記憶は、4歳の頃のものである。

日にちははっきりしている。昭和33年1月20日、一番下の弟の誕生日だ。

弟が生まれるというので、母の実家に私が預けられた時のことなのだ。

その記憶が明確に私の幼児期の記憶として残っている。

母の実家は、当時は函館の隣にある亀田町(40年ほどまえに合併して函館市になった)にあるわりと大きな農家であった。

家に行くと、とにかく敷地の入口部分にプールのように大きな(子供にはそう見えた)肥溜めがあって臭かった。臭気もそうだが大きさに圧倒されて、ぜったいに落ちてはいけない、近づいてはいけないと誰に教えられたものでもないのに、そう思っていた。

ともかく、まず、の歓迎が肥溜めの匂いで、そしてまたその近くに屋外のトイレがあって、これまた横に牛小屋があった。

母屋には馬小屋もくっついていて、動物の匂いと糞尿の匂いが、微妙に周囲にただよう家なのであった(こういう家は当時の農家では普通である)。

ところで、母の実家には、ジジちゃんとババちゃん(母の両親)と、同居している母の兄夫婦がいて、その子供(イトコ)も当時は4人いた。

臭いに慣れてさえしまえば、その家はたのしいところだった。私より年上の姉妹が3人もいて、女1人で育っている私には何くれとなくかまってくれる姉さんたちの存在がうれしかったし、いつも賑やかでうらやましかった。

ただし、こういう心情は今回の「記憶」のなかのベースにあるもので、当時の意識として、はっきりとしたものではない。後でもっと年がたつほどそれが楽しみになったのだ。

さて、その家に一晩預けられた私のことである。

母方の祖父母に可愛がられ、お客様のようにされ、大勢のイトコに囲まれて、幸せな一晩を過ごしたのであるが、どっこい、翌朝、突然、私は耳を疑う言葉で目が覚めた。

「ユウコがおねしょをした」というのである。

は~????

意味が分からなかった。

まったく。

どうして。

何が起きたのか。

覗き込む伯母の顔があった。

「な~に、ユッコ、おねしょしたんだかー」と笑っていた。

イトコ達の顔もあった。

「ユッコがおねしょした」

みんなで大騒ぎである。

はっきり言うが、これは濡れ衣だ。

私の寝ていた布団が濡れていて、私が犯人だとされたのである。

自分が置かれた状況が判ると、私は必死で抗議した。

「違う! 違う! 違う!」

ちなみに言うが、私の産まれた実家=我が家では、私は“おねしょはしない子”だった。

そこのところに特別プライドを持っていた。4歳なりに。

我が家では、同居する父方の祖父母に褒められて、調子にのって(とにかく幼い時からお調子者で褒められれば木にも上るほどのおっちょこちょいである。だから)、ますますりっぱな「おねしょのしない子」のイメージを壊すまいと子供ながらに思っていた。

かなりのプライドだった。おもらしもしない、「お尻の堅い子」だと我が家ではそう通っていた。

それが覚えもないおねしょの嫌疑をいきなりかけられたのである。

憤懣やるかたない。その気持ちは未だにはっきりと覚えている。

さて、しかし、たしかに私の寝ていたシーツは濡れていた。だが、くどいようだが、私ではない。必死で違うと泣きながら訴えたのだが、「いいさいいさ」で片づけられた。

イトコの中の5歳上のリョーコが、どれどれ、と私の下着に手を当てて、

「あれ、でも、おかしい、パンツは濡れていないよ」

と言ってくれた。

でも伯母には問題にされなかった。

まあ、おねしょは誰かがしたことに間違いはないのだし、それが私であろうが、イトコの誰かであろうが、同じようなものなのだ、大人には。

無念であった。

ほんまの濡れ衣である。

私は、しつこい性格なのか、この時のおねしょ濡れ衣事件は未だに忘れていない。

あの時布団をたくさん並べて大勢で寝た。子供は二人か三人が同じ布団で寝ていたのである。犯人は私が起きる前に起きて、私のところに濡れたシーツを押し付けたのかと思う。なんだか、おかしなことは他にもあったのに、私がおねしょをしたということで、笑っておさまったのである。

私の記憶の最初に、こんな話があった。

今は昔、大昔。

2011年12月12日 (月)

我が家の今昔物語 ③中学生のボトルキープ

今は昔。45年前、私が中学生の頃の話。

我が家の居間の隅に置かれていた棚には、どういうことか、私専用に寝酒用ワインが一本常備されていた。

母が用意したものだった。

それは甘口のワインで当時赤玉ポートワインというネーミングで一般家庭に親しまれていたワインだった。ネーミングは後でポートワインの本場からクレームがあったのか(当時の日本には似て非なるものが本場の名前付きで堂々と売られていた。シャンパンもそうだ。今はスパークリングワインと呼ぶ)、「赤玉スィートワイン」になった。今でも存在する。

当時は一本買うとワイングラスが一つおまけに付いていて、そのグラスに一杯分、中学生だった私は深夜にワインを一人でそそぎ、寝酒にしたのである。

母は何を考えていたのだろう。おかしな話である。

養命酒の代わりのつもりで、養命酒よりも安いワインを私に与えたのだろうか。

それともワインというものが薬の一種とでも思っていたのだろうか。

どうもそんなふしがある。

ところで、私は子供のころからお酒が好きだった。

お正月に大っぴらに飲むお神酒をたのしみにしていた。

我が家は祖父も父も飲兵衛だったから、酒はすぐ隣にあって、私はお燗番もさせられたし、その流れで隙いあらば祖父や父からお猪口のお酒をもらって飲んだ。

そういう私であったから、寝酒にと私だけに用意された赤玉ワインはうれしかった。

深夜まで受験勉強したご褒美と思い、ワイングラスに8割注ぎ、ゆっくりと味わって飲んだ。

とても美味しかった。一日のご褒美、ご褒美。ふふふ。ほくそえみながら。

もう一杯飲みたいのを必死で我慢して、毎日一杯、飲んで布団に入った。

どのくらい続いたのだろう。

何本か、続けて習慣のように飲んだ記憶がある。

「お前は体が冷えるから」記憶の中に母のその言葉が残っている。

だから、冷え性予防に血行が良くなるようにと北海道の寒い冬の間だけ与えてくれたのだろうか。

何もかもが夢のような大昔の出来事である。

中学生が寝酒だなんて……。子どもの飲酒に関してゆるい時代の、今ではありえないお話。

今は昔、である。

2011年12月 6日 (火)

イベントは無事終了

12月4日のチャリティイベントはおかげさまで終了いたしました。

ココログのまちで知り合い友人となって、オキバリヤス・がんばって、と声をかけてくださった皆様に感謝いたします。

私の公式ブログの方できちんとした報告をしていますので、よろしければ下記でご覧ください。

公式ブログ

2011年12月 2日 (金)

我が家の今昔物語②食べてはいけない

今は昔。実家での話である。十五夜の日、お月様にお供えしたものを独身女性の私は食べてはいけないと言われた。

お月さまにお供えした物と同じ物がお布巾で隠され、私だけ別にそれを食べさせられた。

あの頃、我が家でお供えしたものは、とうもろこしと枝豆と葡萄と、洋梨もあっただろうか、お団子は白玉団子のような祖母の手作りの平たくて丸いお団子だった。

行事を仕切っていたのは祖母である。

「十五夜のお月さんにささげたものを結婚前の女が食べたら子供を十五人も産んでしまうから」と因果を含めるように私に言っていた。

十五人も子供を産むというのは、出産なんぞ考えもしない少女の頃の私でも、なんだかおそろしく大変なことのように思えた。

不思議な話だったが、祖母はひそひそ話のように毎回私に告げるので、大人の女の秘密を明かされたような気分になって、理屈を超えて、納得させられた。

どこの家でも同じに違いないと、私はべつに誰にもその話をしなかった。

話題にするほど特殊な話だとは思いもしなかったのだ。

ところが結婚してしばらくしてから、大阪ではそんなことはしないと知り、改めて北海道の友人に訊いたら、北海道の誰に訊いても(実家のある函館や、学生時代に知り合った札幌を始め方々の道民も)、そんな話は知らないという。

どうも、そんなことをしていたのは我が家だけだったようなのである。

だからとつぜん、“腑におちないおかしな話”になった。

祖母は私の結婚を見届けて3か月後に亡くなった。母もそれから10年ほどで亡くなった。

私が疑問に思うようになったのは、祖母も母も亡くなった後のことだ。

十五人も子供を産んでしまうから食べてはいけない、と言われ、そのまま従順に食べなかったせいか、私は一人も子供は産まなかった。

あれはそう言われてもちょっとくらい食べた方がよかったのかもしれなかったかな、というような話をj冗談で友人にして、その結果、そんな話は大阪では聞いたことがないと言われ、さらに北海道でも聞いたことがない話だとわかったのだ。

唯一生きている父に尋ねると、

「さあ、あれは父さんも他では聞かない話だが、どういうわけか祖母さんがそう言ってお前に食べさせなかったのだ」

と言われた。

祖母は男の子を三人産み、女は産まなかったので、我が家でお布巾で覆いお月様の光から遮ったものを食べたのは私だけである。

私の祖母は秋田県の男鹿半島のつけ根にある船越という所の出身だった。

もしかしたら秋田の風習なのかもしれない。

そう思って調べたら、やはりそうだった。

子供が十五人もできる、という話ではなく、難産になるからというような話がネットで出ていた。

女性の月の物とお月様と、微妙な関係で、お月様のお供えを取って食べるとお産にかかわることで苦労するとというような話になったのだろうか。

今は昔のことである。

もう私には月の物も無くなった(笑)

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