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2016年12月 9日 (金)

秋は栗

秋になったら、栗が食べたくなる私です。

特に栗のお菓子。

ということで、仕事に出た日は、帰りに自分へのご褒美としてたいていこの時期マロン系ケーキセットを食べて帰っちゃいます。

9月から食べてきた栗を貼り付けよう。

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これは京阪とJRの京橋駅の近くにあるコカルドのモンブラン。

コカルドは何を選んでも美味しい。いつも迷う。

コーヒーもたっぷりポットでくるので、うれしい。

ちょっとだけモンブランの部分が固く感じたかな。

去年も食べてます。ケーキの装飾も去年と同じ気がします。

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こちらはウェスティン都ホテル大阪の中2階のカジュアルなカフェで。

この日は地下鉄谷町線で移動したので乗り換えの上本町で。

ホテル内でも基本セルフのカジュアルな店で800円台でセットになったと思います。

ここではチョコのケーキが好きなのですが、やっぱり栗の食べ比べしたくて。

すこし私には甘い感じがしましたが、美味しかったです。

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リーガロイヤルホテルのダイニングレストランのリモネで。

ここのは絶品でした。この日は仕事ではなかったのですが、友人と。

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これは11月28日にした講座の帰りに梅田で途中下車して阪神百貨店の地下で見つけて買って帰った中津川の「すや」の栗きんとん。

文句なく、毎年これが出たら買っちゃう。見かけたら素通りできない(笑)

私の家の近くにあるミツハシというケーキ屋さんでは今頃は年中出ているモンブランではなく季節限定「和栗のモンブラン」というのが出ます。

これが美味しい。

明後日、夫の母のところへ行くのに買っていくつもりです。

後でUPするかもです。

しかし、こうして何かと言ってはケーキ食べているもので(栗以外もたくさん食べてるしw)体重がはんぱなく増えています。

気をつけなくては。

2016年8月17日 (水)

我が家の今昔物語⑦ まっか

今は昔。

もう35年ほど前のことである。

結婚したばかりだった。

ある日、私は夫の実家へ、近所の市場でキンショーメロンという黄色いメロンを買って行った。

メロンなので、まあ高いメロンではなかったが、ほかの物よりは張り込んだつもりである。

ちなみにその当時、夫の実家は私たちが住む賃貸マンションから歩いて2分ほど、なのでほぼ毎日のように私は顔を出していたのだが、たまにはちょっと張り込んでとでも思ったのだろう、手土産を持って行ったのだ。

一つ歳下の義妹は私を見るなり「わー、まっかや!」と言った。

真っ赤?

私は何が真っ赤か訳が分からなかった。

その日私が着ていた服も、手にしたものも、赤い物は一つもない。

次に夫の母が傍に寄ってきて「ホンマや、まっかや」と言った。

その時の母の視線の先がメロンだったので、黄色いメロンなのに、真っ赤というのがよけいに分からず、もしかしてこのメロンは切ったら中が真っ赤なのかと思った。

さらに夫の父もやってきて「へー、まっかやないか、懐かしいな」と言う。

みんながそのキンショーメロンでテンションが上がっているようすなので、まずは買った甲斐があったようには感じたが、まっかは、切ってみたけれど、果肉は赤くもなく、むしろ白いメロンであった。

それで、黄色いのに何で真っ赤かと尋ねたら、

「真っ赤ではなく〝まっか〟や」という。

一緒じゃない?

私にはその違いが聞き分けられない。

「まくわ、や、マクワウリ」

そう言われても訳は分からない。

なんでまくわが真っ赤なのだ?

しかもマクワウリって、何よ、これはキンショーメロンでメロンでしょ、シールも貼っているし。

そもそもウリは縞々があって青い細長い物でしょ?

はてさて。

納得できないものの、まあ、みんなが機嫌よくしているのだからいいか、と思った私だった。

夫は後で「まくわ→まくぁ→まっか、と変化したんや」と教えてくれた。

そして「ユウコの言うウリは奈良漬とかに使うウリで甘いウリとは違う」とノタマッタ。

いやいや、違うことはないよ、私が子供の頃に食べたことのあるウリは緑色で縞がある細長いウリだったよ。

甘くて美味しかったよ。プリンスメロンが出てきてから見なくなったけれど。

そう言ったけれど、相手にしてもらえなかった。

ずっと長い間、マクワウリとマッカとキンショーメロンのことは、面白いエピソードながらも何だか納得できないまま私の中で眠っていた。

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ところで、夫は先日突然「まっかをもらいに行く」とノタマッテ、退職後家庭菜園をしている友人に会いに行って、沢山もらってきた。

夫が釣りで大量に釣った時にお裾分けする元同僚で、時々海の幸と山の幸を物々交換するのだが、どうも「懐かしいけどなかなか手に入らないまっかが食べたい。作って欲しい」と厚かましくもリクエストしたようなのだ。

その日、男同士楽しくランチをして、嬉しそうにまっかと沢山の野菜を段ボールにいっぱい頂いて帰って来た。

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黄色い。これが夫が食べたかった ↑ 懐かしのマクワウリである。

メロン系の味だが、もっとさっぱり爽やかな甘さで美味しかった。5個も頂いた。

写真のは最後に残った小ぶりのもので、もっと大きいのを頂いて堪能した。

それで初めて、私が35年前に買ったキンショーメロンがマクワウリを丸くしたようなもので、だからみんなが黄色いのに「まっか」と言ったのだと納得したのだった。

ネットで調べてみたら、キンショーメロンはマクワウリをベースに掛け合わせたメロンだということも分かった。なるほどである。

調べているうちにウリを中心に紹介している方のサイトを見つけた。

ウリが地方によって色々あるのものだというのもそちらで知った。

興味深いサイトである。

私が生まれて育った北海道のウリは私の記憶通りに、縞模様の有る横に長い緑色の漬物のウリのような形のウリで、「北海甘露」「アジウリ」と呼ばれていたものというのもそちらで教えていただいた。

http://www.chinjuh.mydns.jp/hakubutu/kuirejo/melon_b.htm

(こちらのサイトの下の方に北海甘露が写真付きで。リンクフリーというので貼りました)。

アジウリという名前に覚えがあった。記憶の底に沈んで忘れてしまっていたが、そのサイトを見て、何十年かぶりに揺り起こされ目覚めた感じである。

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生きるのに忙しくしている中年期には、一瞬フラッシュのように思い出す過去の出来事も、そうだった、と懐かしむだけで、ひたすら前を向いて生きてきた。

わざわざ懐かしい物を作ってもらおうとも、わざわざ懐かしい人と再会しようとも、探そうともしないで。

夫は今月に入って3回、古い友人たちと飲みに出かけた。

高校時代の友人。大学時代の友人。かつての同僚。

会いたいと思った時に会わないと、人の命は永遠ではない。

まっかも、いずれ絶滅してしまう品種かもしれない。

今のうちに急いで食べないと。(笑)

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私の育った地方では「け」は「くえ=食え」である。

「ユッコ、すすけ、遠慮すんな」と勧められた場合は「ユウコ、寿司食え、遠慮するな」ということだ(「す」も「し」もなまって「す」で同じである)。

なので、北海道と関西と離れてはいるが、まっかの「か」が「くわ→くぁ→か」に変化するのはよくわかる。

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そういえば、まっか、と同じように戸惑った大阪の言葉に「かって」がある。

これは「買って」だと思ったら大間違い、正反対の「借って」つまり借りてなのである。

会議でホワイトボードが無いというので誰かが「じゃあ、かったらいい」と言うので高い経費になると思ったが無理して買ったら、言った人に驚かれて、レンタル業者から借りたらいいという意味で言ったという笑えない話を知っている。

これなども、夫や夫の母には発音の違いが判るらしいが、ネイティブ大阪人以外には迷惑な話である。

もっとも、ネイティブ大阪人と言っても、マクワの「まっか」も借りての「かって」も、今の若い人には分からない。

今は昔、の話である。

2016年5月10日 (火)

裏ナンバ探検記と高丘親王航海記

めちゃくちゃ久しぶりの更新ですm(__)m

連休前に、大阪の裏ナンバと言われるあたりを探検してきました。

行ったところは「味園(みその)」少し前に「味園ユニバース」というタイトルで映画化されたところです。

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ユニバースはキャバレーで、昭和のころには非常に流行っていたところだったそうです。
味園はビルになっていて、一部は個室で宴会もできる飲食店。上のフロアでは宿泊施設もサウナもあるのですが、私が探検しに行ったのは2階にあるバーでした。 私が、というより私が代表をしているある会の理事たちが、連れもって俄か探検隊を組織して出かけたのでした。

ここの2階は時を経て古くなったため今は賃貸料が安くなったおかげで、面白さプンプン、怪しさプンプンのバーがひしめき合っているという噂だったもので。 2階へは右写真のように、らせん状のゆるいスロープを歩いて上り下りします。

マスクの怪しい女が私www

ところで探検隊の集合時間がこの種のバーの開店時間には少し早かったため、ハリキッテ行ったものの、開店しているところが3、4店舗ほど。

ぐるっと2階の廊下を一周し、開いている中で怪しさが特に漂っていた「夕顔楼」に入りました。

緊縛をうたっていたのでちいとばかりドキドキ。

店内、暗~。
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でもさほど過激でもなく、置いているものがちょっと意味あっりげな人形とか、書籍で、私たち女7人で思いっきり喋りまくり、少しは有った怪しさも帳消しか(笑)。

ただこのお店に置かれているものを見ていると、私がかつて好きだった作家でフランス文学者の澁澤龍彦のコレクション世界というようなものに似ていて、そんな話をしたら、マスターが奥から澁澤龍彦を特集した大型本を出してきて見せてくれました(しかし暗いし字が小さくて見えんwww)

私はマスター自身澁澤龍彦が好きなんじゃないかとにらみました。

澁澤龍彦は今から20年ほど前に喉頭がんで亡くなったのですが、最期に発表した小説「高丘親王航海記」を読み直してみたくなり、帰宅してから再読。
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高丘親王というのは実在の人です。本来の字は高岳親王、平城天皇の皇子で平城天皇譲位後に次の嵯峨天皇の皇太子として立ち、薬子の乱(実父である上皇が嵯峨天皇と揉め再び重祚しようと皇位をめぐり争った。平城天皇側が敗北)後に廃太子、出家して真如親王、高野山の空海の弟子になった人物です。
晩年、仏法を究めたくて唐へ行ったものの、唐では仏教が著しく廃れ、よって仏教発祥の天竺を目指し航海し、その途中で亡くなったのですが、死の詳細は不明で、今のマレーシアのジョホール・バルあたりで虎の害に遭ったという説があり、小説でも最期はそうなっています。

澁澤龍彦は日本の歴史の中からその高岳親王を選び、日本史の中で稀有な悪女とされてきた今で言う美魔女・藤原薬子をからめ、西遊記のように、マレー半島を舞台にした奇譚物に仕上げたのです。
最終章、高丘親王は喉の奥に違和感を覚えていて、それが最初の章で描かれた薬子が何処かへ放った光る珠=真珠で、それが時空を超えて最期に親王の喉に付いたというようなことで物語は着地しています。

喉頭がんで苦しんていた澁澤龍彦の最期の作品、なんだか夕鶴のつうが自分の羽を抜いて美しい織物を作ったように、彼の最後の魂をこの作品に込めて作ったとも読めます。

読売文学賞を受賞した作品です。

知識の豊富な彼らしい作品だったな、と改めて感嘆しきり。

そういえば私、30年以上前、シンガポールにツアーで行ったのですが、そのツアーというのはシンガポールから2、3時間車でマレーシア国内へ入った先にあるデサルビーチというリゾート地で真ん中2泊する4泊5日のツアーで、シンガポールから国境の橋を渡ってすぐのジョホールバルからデサルビーチまでの間の道路に「虎注意」という標識が有ったのを思い出しました。
北海道出身の私は「熊注意」の標識に慣れていて、同じようなものだな、くらいに思ったのですが、30年前までなお虎の害があったということなのでしょう。

ひょんなことから、澁澤龍彦再読して、良かった。

夕顔楼はいいお店でした。

マスターただものではない雰囲気が有って、チャージも無かったのか、7人で10700円。

もっともおつまみのメニューはなく、スナック菓子のような物で、お酒も1杯だけの人もいたのですが、それにしても安い。

参加者の中のSさんがカンパということで1万くださって、会計の時にカンパでほとんどいけたやんかと驚きました。

(ありがとうSさん)

また行ってみようかと思わせるお店でした。

2015年7月18日 (土)

平和憲法を護りたい

台風一過、本日は晴れています。

被害にあわせた方、お見舞い申し上げます。

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ところで、私は、7月15日の衆議院特別委員会での安保法案強行採決と16日の本会議の採決に、怒りがおさまりません。

本日18日午後1時に下記のポスターを掲げる澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さんをはじめとする皆さんの運動に、私も参加し、道行く人が見える家の窓と、ガレージにポスターを貼りました。

再び日本が戦場に人を送り込むようなことのない平和な社会を守りたい。

日本国憲法9条を正しく護りたい。

ここでも声をあげたいと思います。

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2015年4月17日 (金)

マイブーム・ アボアボ カドカド~♪

いつもながらのごぶさたです。

書こうと思いながら放置していて、よって体調が悪いかとご心配くださった方もいらして、申しわけないかぎりです。

体調はぼちぼちです。血小板と赤血球はかなり健康な人に近づいてきたのですが、どういうことかここにきて菌と闘ってくれる好中球が前回の半分に減ってしまって…、によって要注意は要注意で、用もなく人混みをうろつくなんぞしないようにせなあきません。

食べ物なんかも自己責任で、注意して食べないといけませんね。

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しかし、しかし、この頃のマイブームはマグロとアボカドのサラダ丼heart04

ほら今ファミリーレストランのガストできれいなおねえちゃんが宣伝しているでしょ、「アボアボ カドカド~~~~♪♪」というやつです。

それを自宅で作って、この3週間ほどは週2くらいのペースで作って食べています。

最初はガストでお昼に食べたんですよ。

カロリー少なめで、あっさりヘルシーな感じなので頼んでみたんです。

そうしたら、美味しくてhappy01

さっそく、その帰りにストアに寄ってアボカドとマグロのお刺身を買って再現。

うひひ。

簡単に再現できたんです。

以来、マイブーム。

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実際はもうすこしアボカドの色がきれいな緑色でマグロもきれいな赤なんですが携帯で撮ったもんで(汗)

作り方はいたって簡単。

材料はマグロのお刺身(安いので充分)+アボカド+温泉卵+レタス

丼にふつうのご飯をいれて、上にレタスを小さくちぎってのせ、その上に適当に小さく切ったマグロとアボカドと温泉卵をのせて、うえにお好みでマヨネーズをちょいとかける。

このご飯はワサビと生醤油(写真の左・ガストでも少し深めの小皿にチューブのワサビを入れてテーブルにある醤油で食べるのです)を溶かしたものをかけて、最終的にはまぜまぜして食べます。

マグロの品質に問題が無ければ通常なら、誰が作っても同じ味になります。

レタスがさくさくしていて、アボカドとマグロと温泉卵とマヨネーズがまざってトロッととろけて、ウマ~~なご飯です。

ということで、久しぶりのブログは食べ物の話でした。

元気にしています

2015年2月 9日 (月)

我が家の今昔物語⑥ニッカとシゲコさん

毎日NHKテレビ小説「マッサン」を楽しみに見ています。

というのも、ニッカウヰスキーと余市には懐かしい思い出があるのです。

私の短大時代のクラスメイトには余市から札幌まで一時間近くかけて通ってくるシゲコさんというとてもチャーミングな方がいました。

友達になって、そのうち何度か泊りがけで遊びに行ったり、彼女が泊まって行ったり。

彼女のお宅は、お父様が早くに亡くなり、お母様と弟さんと、父方のおばあ様が暮らしていました。

大きな立派な仏壇があって、禅宗だと話していたので、TVドラマに出てくるように彼女のご先祖ももしかしたら会津の武家だったのかもしれません。

余市はリンゴの名産地でしたが、ほかにサクランボでも有名で、彼女からお土産にサクランボをたくさんもらったうれしい記憶もあります。

「お母さんが、これは食べ過ぎたらお腹壊すよ、って」と言いながらずっしりと重い茶色い紙袋を渡してくれたから、あれはお母様からの差し入れだったのでしょうか。学生には贅沢な果物で、お腹壊すまで食べても構わない、と思いっきり食べました。

後にも先にもあんなに食べたのは初めてで、おいしかった~。

幸せな思いをしました。

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ところで、私たちが就職先を探す頃、世の中は突如ドルショック、オイルショックで大変な経済状態になってしまいました。

それまでにない就職難、どこもかしこも新卒の採用は控え目、スチュワーデスの採用試験に通った友人などは半年間自宅待機で、その半年間アルバイトをしていました。

私は局アナを目指していたのですが、採用する人数が大幅に減り、最終の一つ手前まで進んだ局はあったものの落ち(その局は結局女子は1名しか採らなかった)、たまたま年末に公募があったラジオ番組のパーソナリティのオーディションにかろうじて次点で受かり、卒業とほぼ同時にその番組のパーソナリティの一人として仕事をはじめることができた、つまり首の皮一枚で繋がって仕事に就けたのでした。

そんな苦難の時代、余市のシゲコさんには、ニッカウヰスキーから「よろしければうちの会社はいかがでしょう」と声がかかって、いち早く就職が決まったのです。

シゲコさんのお母様に「お嬢様はそろそろ就職されるお年頃ではないですか。どこかお決まりですか。もし決まっていないのであれば、よろしければ」というお話があったというのです。

実はニッカウヰスキーの工場の土地の一部は、元はシゲコさんのお宅の土地だったのだそうで、ニッカはそこを買って、つまり譲っていただいた恩があるので、シゲコさんに声をかけてくださった。

その話を聞いた時、なんと義理堅いハートのある会社だろうと、私はニッカを見る目が変わりました。

彼女は美人で性格もいい子でした。

ニッカの工場の案内嬢になり、私は彼女の案内で2度ほど工場見学しました。

その当時は工場での試飲は飲み放題(笑)、とはいえ、そこでそんなに飲めるものでもなく、一度は研究室の研究スタッフも交え、近所の数軒しかない歓楽街?のどこか居酒屋かスナックかで飲んだ記憶があります。

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私が結婚するすこし前に、彼女は前途有望なニッカの社員と結婚しました。

彼女のお相手は営業にいた人で、函館に異動したというので、私は結婚後、函館の実家に帰った時に一度彼女の住むアパートへ遊びに行きました。

彼女の作ったお昼をごちそうになり、それはイタリアのカチャトーラに似た鶏肉のトマト煮込みで、とても美味しかったのでレシピを聞いて、以来若干形は変わったものの我が家の定番メニューになった料理で、だからその料理を作ると、シゲコさんを思い出す私です。

しかし、年賀状をなんどかやり取りし、喪中で欠礼したこともあったりしているうちに、いつのまにか音信不通になってしまいました。

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今、どうしているのでしょう、シゲコさん。

ドラマの「マッサン」では現在、余市を舞台に、マッサンにニッカの工場用地に自分の土地家屋を売った風間杜夫が演じる架空の森野熊虎が出ています。

どう思って見ていますか?

それから「御嬢さんの就職はお決まりですか?」と声をかけたのは、もしかしたらマッサン本人ではなかったでしょうか。

あの時、まだ竹鶴さんはご健在でした。

今、ドラマの影響で、工場見学は行列ができているのだそうで、案内嬢はさぞ忙しいことでしょう。

懐かしいな~。

シゲコさん。もう一度あなたに会いたいものです。

 

2014年10月18日 (土)

卒業

函館の父が9月27日未明に亡くなりました。

満で86歳、数えで88歳でした。

50歳くらいの時に転んで脊髄の神経をすこし損傷し、徐々に手足がしびれたり感覚がなくなっていき、70歳台からは歩くのもなかなかままならず、5年前からは自宅でもすべて車いす生活でした。

内臓だけは丈夫でしたが、老化にともなう衰えは仕方なく、私のすぐ下の弟は10年ほど前から仕事を辞めてその父の介護にあたって今日まで苦労してきました。

施設に入ることを嫌がっていたため、心の優しい弟は、独身だったので(姉の私は遠い大阪にいたし、もう一人の弟は青森なのでやはり離れていたため)一人で献身的に介護してきていたのでした。

私が病気になる前は一年に一度介護に行きましたが、たった7日間ほどでも夜中も1時間半に一度トイレのために起こされて連れて行く生活(連れて行ってもすぐには出ないので15分くらいも待たされて、粗相があればすぐに全部着替えさせる)は、くたくたになりましたので、それが毎日の弟はどれだけ大変だったかと、頭が下がりっぱなしでした。

その父が昨年の秋に私と同じように血液を造らなくなる病気になり、さらにこの6月からは菌に対する抵抗力がないため、肺炎で何度も入退院を繰り返し、とうとう亡くなったのでした。

私はちょうど26日に文学講座の仕事と、主催している文学賞を支えてくださっている協賛会社の役員とお目にかかるお約束を入れていましたので、それが済み次第、一度父の見舞いに行くと数日前から航空券を取っていたのですが、間に合わず、その夜中に逝きました。

介護していた弟も「オレも病院から電話で呼ばれて、飛んで行って10分後くらいにあっという間に亡くなった」ということで、もうすこしは大丈夫かと思っていたけれど急変したということのようでした。

そんなことで、予定通りの飛行機に乗って、父とのお別れに行きました。

集まった姉弟で話をしてみたら、前日の26日は私には仕事が、青森の弟夫婦は結婚記念日で記念日らしいことをして、寝た後での死で、父は私たちのそういうことが済むまで頑張って、くれたんだと思いました。

ともかく、私たち子供たちと、イトコ(父は一人っ子だったので、亡くなった母方の方のイトコ。母の兄弟姉妹はほとんど亡くなり、生きているオバさんも動けないのでイトコだけ)で、こじんまりと葬儀をしました。

覚悟は昨年からありました。

父は思い残すことなく、最愛の母のそばに行ったと思います。

献身的に介護を続けてきた弟がロスになってしまうのではないかと、今はとても心配ですが、私は父への感謝も思い出もすべてを含め、父との別れを「卒業」と心に区切りをつけました。

来月、再び、49日に骨納めで函館に帰ります。

2014年9月 5日 (金)

34回目の通院日

めちゃくちゃ記録サボっていました。ははは。

ほんとうに久々、ほぼ1年ぶりの血液の数値です。

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白血球 2600/ul  (前回2450/ul     1年前 2040/ul 基準値・女性 3500~9400

好中球 1450/ul   (前回            1年前860/ul       500以下注意 )

赤血球 298万/ul  (前回       1年前261万/ul      基準値 380万~500万/ul

ヘモグロビン 10,7g/dl (前回101g/dl       1年前9,3g/dl      基準値 11.5~16g/dl

血小板 12,7万/ul   (前回12,8万/ul 1年前9,9万/ul      基準値 15万~35万/ul

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ということで、ジリジリと数値はUPしてきています。

(前回のデータ抜けているのは、前回の検査結果の紙がすぐみつからなかったので、またそのうち見つけてきちんと入れます)

とくに白血球が増えて、なかでも細菌を退治する好中球がかなりいい感じに増えています。

順調なので、2か月に一度だった通院が、次回からは3か月に一度でいいということになりました。

うれしいです。

そんなことで、ひさびさの報告でした。happy01

2014年3月31日 (月)

びんぼくさいが好きな物

今、食べ終わって、幸福感いっぱい。

なにが? って、パンの耳。

耳というのよね、たぶん。

食パンの両端を薄く切り落とした部分です。

私が好きなのは、バターの入ったリッチな食パンのその端っこをトーストしたもの。

食べてしまったから、写真は無いけれど、コーヒーのおともで食べるのが好き。

このところハマっているのは、スーパー「ライフ」のなかにあるパン屋さん「小麦の郷」のホテルブレッド。

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食パンは関東と関西では好みの厚さが違うようで、関西ではいちばん多いのが5枚切り。

北海道育ちの私が関西に来るまでは6枚切りか8枚切りのパンを食べていて、5枚切りはあまり見かけなかったような。

そして当時は6枚と8枚のどちらが好みだったかなんて、もう遠い昔の話なので、忘れてしまった。あはは。

(というか、基本ご飯が好きだったので、食パンじたいあまり買わなかったかな。パンを買うときはたいてい菓子パンか惣菜パンだった)

関西に来て、5枚切りに慣れたら、5枚切りはパンの味がはっきりわかって美味しいと、食パンも好きになりました。

トーストしたら中がもちっとふわっとして、外はパリッとして美味しい。

そんなことで5枚切りが標準になった私です。

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ところが、病気をして、退院はできたものの、まだ食べ物に制限があった時に、たとえばパンケーキやトーストなら生ものではないので外食もそこそこ出来たので、息抜き、手抜きに、時々朝食を食べに夫とロイヤルホストに出かけたのですが(ここのパンケーキが美味しくて、たいてい私はそれ目当て)が、夫がよく頼むモーニングのトーストは8枚切りのパンが一枚っきり。

最初は、なんとケチくさい、大阪じゃあトーストは5枚切りが標準で、モーニングサービスでは4枚切りなんてのも普通やで、と驚いてました。

足りないから、トースト一枚追加注文するんですが、内心ずっとこんな薄っすいパン、と不満でした。

(すこしお互いのを交換して食べるから思うのね)

しかし、慣れというのは恐ろしい。

私がかつて、あっというまに関西風の5枚切りが美味しいと思うようになったように、これまた1年ほど経つと、この薄いパンが、中までカリッ、パリッとしてなかなか美味しいものではないか、と思えるようになったのでした。

そんなことで、8枚切りは見かけないから、たまに自分で1斤をパン切り包丁で薄めに切って食べたりするようにもなったのです。

はてさて、そこで先ほどのパンの耳。

パンの袋に、切った端っこを一緒に入れている、その一枚しかない耳を、キツネ色にこんがりと焼いて、サクッと、バターもジャムもシロップも何もつけずにコーヒーを飲みながら食べるのが、最近とても気にいっているのです。

2014年3月 9日 (日)

我が家の今昔物語⑤ 御高祖頭巾と担ぎ屋と

今は昔。(ひさしぶりに更新します。皆さまご無沙汰でした)
私の祖母はサザエさん一家のフネさんのように常に和服を着ていました。
祖母の友人たちもみんなそうでした。生きていたら年齢は幾つになるのでしょう、100はとうに過ぎています。

我が家は先の戦争のため祖父母にとっての長男だった伯父が亡くなり、私の父が一人残され跡取りになり、そこへ私の母が結婚して入ってきました。
最初に生まれたのが私でした。

祖父母には女の子がいなかったので、私が誕生した時はとにかく女の子が生まれたということでとても喜んだそうです。
そうです、というより、身を持って祖父母に超のつくほど溺愛されて育ちましたcoldsweats01

私がおしゃべりで、言語中枢が異常に発達したのは、まさにこの祖父母に毎日話しかけられ、刺激を与えられたからにちがいないと思っています。
私は他の同じ年頃の子が「カラスは何て鳴くの?」と訊かれてやっと「カ~カ~」と答えられるようになった頃には、もうペラペラ喋っていたそうで、まさに口から生まれたとはこの子の事だという状態だったようです。

1歳半下に弟が生まれたため、私の世話は祖母が中心にしてくれました。
ほとんど祖母のおもちゃだったので、私はどこに行くにも祖母に付いて行かされ、物心つく頃には、だから祖母の友達が自分の友達だと思っていました。

気分は対等ですから、祖母と同じように座布団をもらい、同じように茶托にのせられたお茶をもらい、お茶うけの漬物なんかを食べて、「あ~~」とかなんとか咽喉やら舌をならしたり(下品やね)目を細め、美味しそうに頂いたのです。
たまにあまり行かない方の家に連れられて行って、座布団も茶托にのったお茶も私には出ないと、他の普通の子供が喜ぶような飴をもらったとしても、私は気分を害しすぐに「帰る」と言ったもので、祖母はすかさず「すみません、この子にも座布団と茶托にお茶を」と頼んだという話でした。

早い話コマっしゃくれたガキやったということです。


さて、そんな当時、北海道の雪の降る今頃の季節、祖母たちの外出時の格好は、着物の上にコートならぬ角巻(かくまき)でした。
角巻とは部厚い毛布でできた大きなストールのようなものです。

大きな四角いものを三角になるように半分で折って肩から時には頭からすっぽりかけて巻いて着ました。
角巻の画像

ところで、角巻だけではなく、なかには御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶる方もいました。
祖母の友達のうちの二人が決まって御高祖頭巾をかぶって家に訪ねてきました。

御高祖頭巾とは映画やTVで「忍者」とされる格好の頭巾とたぶん同じものです。
すっぽり耳も顔でも半分くらい覆うので、雪の降る季節には防寒に良かったのではないかと思います。
色は二人とも黒っぽい色でした。
私は子供心にこの御高祖頭巾が気になり、風呂敷を被って真似て「○○ばあさん」だと言って遊びました。

そのおばあさんのうちの一人は、今から思えば、祖母の友達ではありますが商売で反物を風呂敷で担いで売ってもいたようで(だから特にそのばあさんの真似をするときは風呂敷が2枚必要だった。笑)、毎回そのおばあさんの担いだ荷物の中から反物が出て、近所の人たちが見に集まっていました。
今日、親しくしているおたまさんのブログ記事を読んで、ふっと、そのころの私の思い出がよみがえったのです。

色とりどりの巻かれた反物が、次々と、すーっと畳に1メートルほど伸ばされ、顔映りを見るために人々の肩にあてられ、あーでもないこーでもないと賑やかに話が弾み、また伸ばされた反物はするすると巻かれて元の一本の筒状の物になるのでした。

我が家に反物を持ってくる人はもう一人いて、その人は男性でした。
まとうさん、あるいはまっとうさんと呼んでいたように思います。
この方は御高祖頭巾のおばあさんの持ってくるものよりは上等で、行李に入れて担ぐ量もかなりの量だったと思います。
柔らかい物腰で、顔はマヒナスターズの松平直樹にほんのちょっとだけ似ていました。
松平直樹より老けて、横幅もありましたが。
その人がいる店はJR(昔は国鉄と言った)五稜郭駅の近くにありました。

当時は車で販売などあまりない時代です。

日本の津々浦々まで、そうした行商の方が反物を持って歩いていたんだなと思います。

あ、今書いていて思ったのですが、デパートの外商さんってのはその流れであるものですね。松平直樹にちょっとだけ似ていたまとうさんは五稜郭駅の近くの呉服屋さんの言わば外商係員だったのかもしれません。

祖母や母ばかりでなく、子供の頃の私の着物も、そうして御高祖頭巾のおばあさんや、まとうさんによって運んでこられた中から選んだ物でした。

行商といえば、当時の函館には行商というよりも「担ぎ屋」と呼ばれた方々がいました。
とくに函館で「担ぎ屋」というのは主にはお米の担ぎ屋でした。

当時はお米は政府からの配給米を国民は食べていました。

米穀通帳というものもあってお米は個人が自由に手に入らなかったのです。

しかし、当時の北海道のお米はあまりおいしくなく、少し余裕があれば美味しい本州のお米を食べたいと思うのが普通で、だから禁止されている闇でのお米の売買が暗黙裡に行われていて、その売買をしたのが担ぎ屋でした。
米を青森の黒石あたりの有名な産地の農家に直に買い付けに行き、持って帰り、それを業者に売るのです。
重い米は、運びやすいように細長い枕のような袋に詰めて、何段も重ねて、自分の体重の5倍もの重量の米を運んでいました。

警察に見つかったら没収の上、罪になります。

罪になるのは嫌なので、見つかりそうになったらそっくり捨てて逃げたといいます。
彼らは効率よく、往きには農家の欲しがる物を運んで向こうで売り、米を買って帰ってきました。
我が家のお向かいに、その担ぎ屋をしているおばあさんが住んでいました。

夫を亡くしたあと、子供たち3人を食べさせるために担ぎ屋を選んだ人でした。

私は時々母に頼まれ、お米屋さんではないお向かいへ、おいしいお米を升を持って買いに行きました。特別な時に食べるとっておきのお米です。

そうした担ぎ屋は、食べ物のない戦後は特に多かったようですが、私が生まれた半年後に起こった台風での青函連絡船の洞爺丸沈没事故でたくさん担ぎ屋が亡くなり、一気に数が減ったと聞きます。
お向かいのおばあさんはそれでも続けたうちの一人です。
そのおばあさんも祖母とは友達で、だからよく家へ遊びに行ったものでした。しょっちゅう函館と青森を往復しているので青森に詳しく、連絡船で一緒に青森に行って駅前の市場を案内してもらったような記憶もあります。

最初にも書いたように、祖母の友達は全員常に和服を着ていました。

祖母は亡くなるまで和服で、ついでにいえばノーパンshockでした。

小学生の頃、参観日には母も和服で来ることがありました。

それがいつしかあっという間に世の中が変化し、和服は冠婚葬祭などのハレの衣装になり、サザエさん一家のフネさんのように常時和服で過ごす人はほぼ絶滅、ですか。

私の友人のA地さんは、長年旅館の女将さんをしていたせいで、そのほぼ絶滅品種の中にまだいらっしゃいますが…。

今は昔のお話です。

(もうすこし担ぎ屋の話は長く書いたんですが保存を押した途端フリーズして消えて、再度書く気力が萎え、ようやく奮い起こしてここまで書きました。充分これでも長いか。あはは)

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